第十五章 ご老公
本多は、水戸の前まで進むと静かに立ち止まった。
そして。
深々と一礼する。
「ご老公様」
会場の空気が凍り付く。
「専務取締役、本多忠信。お呼びにより参上仕りました」
静まり返った会場へ、本多の声だけが響いていた。
一瞬。
誰も理解出来なかった。
そして次の瞬間。
会場中の人間が言葉を失う。
「……え?」
「は……?」
「ご老公様……?」
空気が完全に変わった。
ステージ脇で様子を見ていた渡辺と牧野も、顔を引きつらせている。
「あの若者が……本物のご老公様……!?」
渡辺が呆然と呟く。
牧野は青ざめながら小声で言った。
「や、やはり深入りしなくて正解でしたね……本部長」
「ああ……」
二人は本気で安堵していた。
一歩間違えば、自分たちも終わっていたのだ。
一方。
今川と愛子だけは現実を受け入れられなかった。
「こ、これは何かの間違いだ!!」
今川が叫ぶ。
「こんな奴が、ご老公様の筈がない!!」
愛子も半狂乱だった。
「そうよ!!この本多専務が偽物なんだわ!!」
完全に取り乱している。
だが渡辺は静かに言った。
「私は一度だけ、専務にお会いした事がある」
その声は重かった。
「あれは間違いなく本物だ」
愛子の顔から血の気が引く。
牧野も憐れむように呟く。
「……今川部長と水野次長、終わりましたね」
二人は聞こえていない。
いや、聞こえていても理解を拒否していた。
「一体何の冗談だ!?」
今川が叫ぶ。
「寄ってたかって俺たちを騙して!!」
愛子も涙目で叫ぶ。
「こんな無能のクズが、ご老公様の筈ないわ!!何を企んでるの!?」
すると本多の目が鋭く光った。
そして二人を睨み付ける。
「お前たち……」
その低い声だけで、周囲が震え上がる。
「まさか、ご老公様へ無礼を働いてないだろうな?」
凄まじい威圧感だった。
今川と愛子は一瞬だけ怯む。
だが、もう後戻り出来なくなっていた。
「お、お前たち二人とも偽物だろ!!」
今川は半ば叫ぶように言った。
「俺たちを騙して何がしたいんだ!?」
愛子も水戸へ縋るように叫ぶ。
「邦光!!私の事を恨んで、こんな事してるんでしょ!?本物のご老公様に知られたら、ただじゃ済まないよ!?」
会場中が静まり返る。
そんな中、水戸――いや、徳川光圀は静かだった。
「二人とも……」
呆れたように小さく息を吐く。
「もう是非の判断すら出来ないところまで行ったか」
そして今川を見る。
「今川。お前、さっき青山へ電話してたよな?」
今川の顔が引きつる。
「本多が来た時、“青山から聞いている”と言った」
水戸は淡々と続ける。
「この本多が偽物なら、“青山から聞いている”なんて話になる訳がない」
今川の表情が凍る。
「そして、その本物の本多が、俺を“ご老公様”と呼んでいる」
静かな声。
だが、その言葉は絶対だった。
「つまり、俺がその“ご老公”――徳川光圀だ」
会場が静まり返る。
「理解したか?」
今川の膝から力が抜けた。
その場へ崩れ落ちる。
「そ……そんな……」
顔面蒼白だった。
「そんな馬鹿な……」
一方、愛子は震えながら水戸へ近付く。
「ど、どうして……?」
涙声だった。
「どうして最初に言ってくれなかったの!?私を騙してたの!?」
水戸は静かに愛子を見つめる。
「言ったじゃないか」
愛子の肩が震える。
「俺が老公、徳川光圀だと」
愛子は何も言えない。
「信じてくれたか?」
その言葉が突き刺さる。
「半導体も、広告費も、サードパーティー参入も、全部俺の功績だと言った」
水戸は静かに続ける。
「信じてくれたか?」
愛子の目から涙が溢れる。
「君は、俺の言う事を一つも信じなかった」
水戸の声は静かだった。
だが、その静けさが逆に重かった。
「そして今川の言葉は、何も疑わず鵜呑みにした」
愛子は崩れ落ちそうになりながら、水戸の袖を掴む。
しかし水戸は続けた。
「元々、横領犯を突き止めるための潜入だった」
会場がざわつく。
「君へ話せば、潜入が漏れる可能性もあった。だから言えなかった」
そして少し寂しそうに笑う。
「それに……君へ最初から正体を明かしていたら、“本当の君”を見る事も出来なかった」
愛子の涙が止まらない。
「幸い、結婚する前に本当の君を見れて良かったよ」
その言葉は、完全な決別だった。
愛子は崩れ落ちる。
「私は……」
声が震える。
「国内トップクラスの大企業社長夫人の座を……自分から捨ててしまった……」
泣き崩れる愛子。
その姿を見ても、水戸はもう何も言わなかった。
その時だった。
再び入口から声が響く。
「三ツ葉エレクトロニクス榊原社長、中根経理部長がいらっしゃいました!!」
榊原が真っ直ぐ水戸の元へ歩いてくる。
そして。
水戸を中心に、本多と榊原が左右へ並んだ。
その光景だけで、誰もが理解した。
この男が頂点なのだと。
榊原が声を張り上げる。
「こちらにおわす御方を、どなたと心得る!!」
会場全体が震える。
「恐れ多くも、ご老公――徳川光圀様にあらせられるぞ!!」
そして最後に叫んだ。
「頭が高い!!控えおろう!!」
次の瞬間。
会場中の全員が、一斉に平伏した。




