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第五章‐「レガシー・ブルー覚醒の証明」

◆第一話―「選考」

 東京アクアオーブ。静まり返った会場に、独特の緊張感が張り詰めている。観客席を埋める人々、そして国内トップスイマー達の視線が、第4レーンの木本遥斗に集まっていた。


■100m背泳ぎ:木本遥斗――覚醒の空

スタート台の下で、遥斗は静かに目を閉じた。

滝沢コーチと交わした、3回の深い呼吸。

「……ふぅ、……はぁ……」

吐き出すたびに、胸の奥に残っていた僅かなざわめきが消えていく。

 観客の気配も、他の選手の存在も、今の遥斗にはもう遠い。

 かつては、この場所に立つだけで息が詰まりそうだった。視線、期待、記録——すべてが、自分を縛るものだった。だが今は違う。

モニターに映る伯父・木本直哉の大会記録。

それはもう、“超えるべき壁”ではなかった。

ただの記録一つに過ぎない。遥斗はそれを見ようともしない。

視線はただ、天井へ。いや——違う。

(……違う。あれは、空だ)

どこまでも広がる、自分だけの空。

「Take your marks...」

 電子音。

 ――号砲。

その瞬間、遥斗の体は迷いなく跳ね上がった。

水の中は、驚くほど静かだった。

かつて感じていた“重さ”がない。

抵抗すら、どこか優しい。

一掻きごとに、体が前へ運ばれていく。

(……軽い)

 ただ、それだけだった。速く泳ごうという意識すらない。ただ、この感覚を壊さないように、繋いでいく。

 ――50メートルターン。

 数字は見ない。

 必要ない。今、自分がどこにいるのかは——もう分かっている。

 ――終盤。

 体は確かに疲れているはずだった。

 だが、不思議と崩れない。むしろ、整っていく。

 腕は自然と水を捉え、キックは迷いなく進行方向へと繋がる。視界には、何もない。ただ、青。

(……これが、僕の泳ぎか)

初めて、自分の中に“確かなもの”を感じた。

残り数メートル。誰かの声が聞こえた気がした。

だが、それすらも遠い。

今はただ、この一掻きを。

 バシィッ——!

 タッチ。

 一瞬の静寂。

 遥斗は水面に顔を出したが、すぐには掲示板を見なかった。

呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げる。

―「51秒88」―日本新記録。 

 そこに表示された数字を見ても、不思議と驚きはなかった。ただ、静かに理解した。

(……ああ、越えたんだ)

「……やった……」

小さく漏れた声。その視線の先で、滝沢コーチが親指を立てている。

遥斗は、わずかに笑った。

(これが……僕だけの空だ)

もう、誰かの為の泳ぎじゃない。

記録の為でもない。

ただ、自分の中に広がるこの感覚。

それを掴んだことだけが、確かだった。


■100メートル平泳ぎ―数馬怜―「連鎖する炎」

スタート台の前。

数馬怜は、静かに立っていた。会場のざわめきは聞こえている。だが、それはただの“音”として流れていく。

かつての自分なら——違った。

対戦相手のラップ。自分の過去データ。

水温、ストローク数、最適解。

すべてを計算し、勝利への道筋を組み立てていた。

だが今、そのすべてはここにない。

タブレットは、控え室に置いてきた。

 必要ないと、分かっているからだ。

(……計算は終わった)

 そう思った瞬間、胸の奥にわずかな静けさが広がる。

(ここからは、違う)

数字では届かない領域。だが、確かに“ある”と知ってしまった場所。

 堂島コーチが言った言葉が、浮かぶ。

 ——空白。

「Take your marks...」

 電子音。

 ――号砲。

体は、迷いなく水の中へ入った。

ひとかき。その瞬間、違和感が走る。

いや——違う。

(……繋がっている)

キックで生まれた推進力が、消えない。

そのまま指先へ、次の動作へと流れ込んでいく。

これまでなら、一度“止めて”いた。

効率のために。最適解のために。だが今は、それをしない。止めない。区切らない。

 すべてを、繋ぐ。

(……そうか)

水は、抵抗じゃない。 拒んでいるわけでもない。

ただ、流れているだけだ。

その流れに、自分を合わせるだけでいい。

――50メートルターン。

ラップは見ない。必要ない。

今、自分がどれだけ進んでいるかは——体が知っている。

後半。

筋肉が重くなる。肺が熱を持つ。

ここまでは、これまでと同じ。

だが——違うのは、その先。

(……まだ、いける)

これまでなら“限界”と判断していたライン。

その手前で、必ず出力を落としていた。

だが今は、その判断をしない。

できない、ではない。

ピッチが、わずかに上がる。

体が警告を発する。

だが、それはただの“情報”に過ぎない。

(……データか)

ふっと、笑いそうになる。

(だったら、もういらない)

ひとかき、ひとかきが、さらに繋がる。

流れは途切れない。むしろ、加速していく。

個別の動作は、もう存在しなかった。

すべてが一つの“動き”として連なっている。

ラスト。限界は、とっくに越えているはずだった。

だが、止まらない。 止める理由がない。

バシィッ——!

タッチ。

水面に顔を出す。

荒い呼吸の中、天井を見上げる。

数秒遅れて、視線を掲示板へ向けた。

―「57秒90」―

表示された驚異的な数字。それを見ても、驚きはなかった。

ただ、ひとつだけ理解する。

(……届いた)

「……どうですか、堂島コーチ」

声は、思ったよりも落ち着いていた。

プールサイド。腕を組む堂島が、不敵に笑っている。

「……フン。僕の理論を超えてくるとは。実に非論理的だ」

 一拍、間。

「——だが、完璧だ」

 怜は、わずかに息を吐いた。そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。

(これが……そうか)

計算では辿り着けなかった場所。

だが、確かにここにある。

胸の奥で、静かに燃えていた炎が、形を持った。

それはもう、不安でも焦燥でもない。

ただ、揺るがない熱だった。


 ■100メートルバタフライ日向鼓太郎―「水上のショータイム」

会場の空気は、確かに熱を帯びて来ている。

だが、鼓太郎はそれを“飲まれるもの”とは感じていなかった。

(……いい感じじゃん)

むしろ、そのざわめきすら心地いい。

まるでライブ前の、ざわついたフロアのようだ。

遥斗が空を掴み、怜がその先へ踏み込んだ。

その流れは、確かにここまで来ている。

だが——

(関係ねえな)

鼓太郎は小さく笑う。

自分は、自分のやり方でいく。

軽く肩を回す。呼吸を整える。

スタート台に立った瞬間、鼓太郎はふっと肩の力を抜いた。

一ノ瀬コーチに何度も叩き込まれた感覚。

 ——抜け。——詰めるな。

(……準備はいい)

「Take your marks...」

 電子音。

 ――号砲。

体が、自然に前へ出た。

入水。

水しぶきが上がる。

だがその中で、鼓太郎の感覚はやけに静かだった。

(……聴こえる)

最初の一掻き。

力を入れるのは、一瞬だけ。

それ以外は、抜く。

戻す。待つ。

(1、2……1、2……)

リズムが刻まれる。無理に速くしない。合わせる。

水の動きに、自分の動きを重ねていく。

(そうだ、これだ)

力むと、音がズレる。

焦ると、ビートが崩れる。

だから、入れるのは“必要な分だけ”。

水面を叩くたびに、小さな“音”がある。

その連なりが、流れになる。

 ――50メートルターン。

体は、まだ軽い。

(……まだいける)

ここからだ。いつもなら、力が入る。リズムが乱れる。

だが今日は違う。

ほんの少しだけ、ピッチを上げる。

だが、崩さない。あくまで、流れの中で。

(サビは、ここからだろ)

腕は重くなっているはずだった。

だが、不思議と回る。

いや——

(回してるんじゃない。乗ってる)

水の上を“跳ぶ”感覚。

力ではなく、リズムで前に出る。周囲の音が、遠くなる。

歓声も、仲間の声も。全部が、ただの“伴奏”になる。

(いいね……これ)

最後の数メートル。リズムは、途切れない。

 バシィッ——!

タッチ。

水面に顔を出す。息を整えながら、ゆっくりと掲示板を見る。

―「49秒20」―日本新記録。 

 表示された数字。

 それを見て、鼓太郎は小さく笑った。

(……ちゃんと決まったな)

派手なガッツポーズはない。ただ、軽く肩を回す。

プールサイドで一ノ瀬コーチが、静かに頷いている。

「……最高だよ」

その一言で、十分だった。

(だろ?)

鼓太郎は、わずかに口元を上げた。

誰かに見せるためじゃない。

ただ、自分の中で“ハマった”。

それだけでいい。


■100メートル自由形:相馬湊―「不屈の咆哮」

スタート台に立った瞬間、会場の音が消えた。

いや、正確には——

聞こえているはずなのに、意味を持たない。

視界にあるのは、水面だけ。

冷たい水。

あの日、すべてを奪った水。息ができなくなった記憶。体が動かなくなった感覚。沈んでいく、自分。

 ——だが。

(……違う)

ゆっくりと息を吐く。

(あれは、もう過去だ)

胸の奥にある“恐怖”は、消えていない。

だがそれは、もう自分を縛るものではなかった。

(……ここは、違う)

今、足元にある水は——

(俺の水だ)

「Take your marks...」

 電子音。

 ――号砲。

次の瞬間、湊の体は水面へと叩きつけられた。

入水。

水が、全身を包む。

——逃げない。

そのまま、蹴る。脚がしなる。

まるで鞭のように、水を打ち抜く。

(来いよ……!)

水が、迫ってくる。押し返そうとする。

——なら、叩き割る。

 一掻き。

水を掴む。押し込む。進む。ただ、それだけだ。

 ――50メートルターン。

壁を蹴る。

体が悲鳴を上げ始める。肺が焼ける。視界が、わずかに揺れる。

だが―

(知ってる)

この感覚は、知っている。 苦しいのは、当然だ。

(それでも——)

腕を振る。さらに強く、水を掴む。

(止まる理由にならねえ)

後半。

周囲の選手が、わずかに落ちる。

だが、湊は落ちない。

むしろ—

上げる。ピッチが変わる。

ストロークが、さらに深く入る。

水を“受ける”のではない。叩き込む。

(ぶち抜け)

誰かの声が聞こえた気がした。

だが、もう関係ない。

遥斗が掴んだ空。怜が越えた理。鼓太郎が乗せたリズム。

すべてが、背中にある。

(……あとは、俺だ)

残り10メートル。

限界は、とっくに越えている。

それでも——

(行けるだろ)

脚が、もう一度水を打つ。腕が、もう一度伸びる。

水が、割れる。

最後の一掻き。

 ——叩きつける。

 バシィィィィィィッ!!

タッチ。

水面に顔を出す。息が荒れる。視界が滲む。

一瞬、すべてが止まる。

そして—

歓声が、押し寄せてきた。

遅れて、掲示板を見る。

 表示された数字。

―「46秒78」 

その横にある文字。

【WR】

 一拍。

(……は?)

思考が、一瞬止まる。

次の瞬間—

「……っしゃああああああああ!!」

拳を突き上げる。水を叩く。

 「やったぞ……! やった……!!」

言葉が、勝手に溢れる。止まらない。

荒城が駆け寄る。腕を掴まれる。

「湊! お前が世界一だ!」

その言葉が、胸に落ちる。

(……ああ)

ゆっくりと、実感が追いついてくる。

(勝ったんだ)

水に。過去に。自分に。

気づけば、仲間たちが飛び込んできていた。

水しぶきが上がる。だがもう、怖くない。

この水は——

(俺の場所だ)

湊は、もう一度拳を握った。


 ◆レガシー・ブル―

かつてバラバラだった「はみ出し者」達は、自分自身の殻を完璧に打ち破り、今日、日本競泳界の歴史を根底から塗り替えた。

 

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