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第三章‐四つの極意、四人の師

◆第一話―荒城の「破壊と創造」 

プールサイドに、怒号が叩きつけられる。

「違う! 膝を曲げるな! 湊、お前の脚は何のためについてる!」

水面を叩く音が乱れる。ビート板を握りしめたまま、湊はキックを続けていた。

 他の三人がそれぞれのメニューへ移る中、彼だけが取り残されている。

ただひたすら、キック。単調で、逃げ場のない地獄。

「力むな! 水を殴るな、捉えろ!」

言っていることが矛盾している。

だが考える余裕など、とうにない。

一時間。二時間。

脚は鉛のように重くなり、感覚が鈍る。

「……っ、くそ……!」

三時間を過ぎた頃、太腿は焼けるように痛み、

 “動かす”という意識すら途切れかけていた。

 ——もう無理だ。

そう思った、その瞬間。

動きが、変わる。叩いていたはずの水が、逃げなくなる。足首が、勝手にしなる。

力ではなく、流れで押し出す。

「——それだ!」

荒城の声が上がる。

「今のだ、湊!」

プールサイドを叩く音が響く。

「それが“正解”だ。覚えろ」

湊は息も絶え絶えに顔を上げる。

「……何が、違う……」

「力を抜いたんじゃねえ」

荒城が言い切る。

「余計な力が“落ちた”だけだ」

一歩、近づく。

「お前はずっと、水とケンカしてた。だから前に進まねえ」

水面を指差す。

「水は敵じゃねえ。使うもんだ」

湊の脚が、まだわずかにしなっている。

「いいか。今の感覚を忘れるな」

低く、押し込むように。

「死にかけた時に出た動きが、本物だ。それがお前の“武器”になる」

湊は言葉を返さない。ただ、水を蹴る。

さっきと同じ感覚を、探るように。

水が——軽い。

「……これかよ」

息の奥で、笑った。その瞳に、熱が灯る。

「そのキックだ、湊」

荒城がニヤリと笑う。

「名前をくれてやる。——“鞭”だ」 


 ◆第二話―「堂島の鏡」

堂島は、数馬の泳ぎを無言で撮影していた。

 プールから上がった数馬は、息を整えながら言い放つ。

「……完璧だ。僕の計算に、間違いはない」

 その言葉に対して、堂島は何も返さない。

 ただタブレットを操作し、二つの映像を並べて再生した。

 一つは、今の数馬。

もう一つは、堂島がUSFで金メダルを獲った時の映像。

「数馬君」

淡々とした声。

「違いを説明してみなさい」

数馬は画面に目を凝らします。

ストロークの数。キックのタイミング。

姿勢。軌道。抵抗。

すべてが一致しているように見える。

「……違いは、ないはずです」

「もう一度見なさい」

短く、鋭い。 繰り返す。

もう一度。さらにもう一度。

その時だった。

数馬の指先が、わずかに震えた。

「……キックの後の、伸び……?」

堂島がわずかに頷く。

「そこだ」

映像がスローになる。

「君はキックで止まる。僕は止まらない」

数馬の視線が、食い入るように画面に固定される。

「君の動きは『点』だ。キックして、止まる。ストロークして、止まる。

すべてが分断されている」

そして、堂島の映像を指でなぞる。

「対して、これは『連鎖』だ。

キックの推進力が消える前に、次の動作へ移行している。

水の流れが、途切れていない。

数馬の呼吸がわずかに乱れる。

「でも、それは……データには出ない……」

「当然だ」

即答だった。

「君の見ているデータは“結果”だ。過程は記録されない」

堂島はタブレットをベンチに置く。

「君は形をコピーした。だが流れを理解していない」

数馬は言葉を失う。

これまで積み上げてきた理論が、静かに崩れ始めていた。

「……では、どうすればいいんですか」

 一拍の沈黙。

 堂島はわずかに視線を落とし、そして言った。

「視覚を捨てろ」

「……は?」

「目を閉じて泳げ」

 一瞬、空気が止まる。

「正気ですか。壁に激突します」

「その前に気づく」

 堂島の声は一切揺れない。

「水は情報を持っている。抵抗、流速、圧力。すべて皮膚で感じ取れる」

 一歩、近づく。

「君は目で泳ぎすぎだ」

そして——

「怜」

呼び方が変わる。数馬の眉がわずかに動いた。

「感覚を使え」

短い一言。

だが、その言葉にはこれまでとは違う重みがあった。

怜は黙ってゴーグルを見つめる。

黒い、視界を遮断するためのもの。理屈では否定したい。

 だが——

映像の中の堂島の泳ぎは、明らかに“別物”だった。

「……やってやりますよ」

静かに、しかし確かな意志を込めて。

「その“連鎖”、証明してみせます」

数馬——いや、怜はゴーグルを装着する。

視界が閉ざされる。 音が研ぎ澄まされる。

そして、水の中へ。

未知の領域へと踏み出した。


◆第三話―「滝沢の青い空」

「遥斗くん、今は泳がなくていい」

滝沢の声は、静かだった。

プールの縁に腰を下ろした遥斗は、戸惑う。

「まずは、浮こうか。力を抜いて」

言われるまま、仰向けになる。水に触れる。

わずかに体が強張る。

「大丈夫。沈まないよ」

肩に触れる手が、ゆっくりと力を抜かせていく。

「……怖いかい?」

小さく頷く。

「うん。でも、それでいい」

否定しない。

「その感覚ごと、水に預けてみよう」

少し間を置いて、

「呼吸しよう。ゆっくりでいい」

吸う。吐く。

「もっと吐いていい。全部外に出すつもりで」

呼吸が、少しずつ深くなる。水の上で、体がほどけていく。

「そう。それでいい」

滝沢が微笑む。

「力を抜くと、体は浮く。浮くと、水は怖くなくなる」

しばらくして、遥斗は立ち上がる。

「じゃあ、100メートルだけ泳ごう」

「さっきの呼吸、三回やってからでいい」

遥斗が頷く。

(吸って……吐いて……)

 ——大丈夫。

三度目の呼吸。そのまま、水へ。

スターティンググリップを掴む。 

背中が水面に触れる。

沈まない。

体が、乗る。

腕が自然に動く。

無理に回していない。

それでも、進む。

 ——軽い。

視界が、開ける。天井の向こう…光が揺れた気がした。

空が見える。

「……あ……」

気づいた時には、タッチしていた。

 ――自己ベストを0.8秒更新!

隣のレーンの堂島コーチが驚きを隠せないでいる。

「このメンタルでか……非論理的だ…。」 

「……今、全然苦しくなかったです」滝沢が頷く。

「それが本来の君の泳ぎだよ」

滝沢が微笑み、タオルを渡す。

「頑張ることが、いつも正しいわけじゃない」

 優しく言う。

「これが君の本当の力なんだ」

 遥斗は黙って聞いている。

「見るべきはライバルの背中じゃない」

 空を指す。

「上だよ。君の泳ぎは、空にある」

 遥斗の目に、迷いがない。

「……もう一回、行っていいですか」

 滝沢は笑った。

「もちろん」


◆第四話―「一ノ瀬のシンコペーション」

「そこまで。上がってきて」一ノ瀬が声をかける。 

「コーチ、今の、どう感じた?」

 一ノ瀬が撮影したスマホの画面を見せる。

「前半はいい。でも後半、固まってる」

 映像の中の自分を見て、顔をしかめる。

「……重くなるんです。だから、無理やり気合だけで回してて」

「それが原因だね」

 あっさり言う。 一ノ瀬は指を鳴らした。

「ずっと力入れてるでしょ」

肩に手を置く。

「それ、ダンスなら一番ダメなやつ」

鼓太郎が苦笑する。

「……確かに」

「リズムはね、“抜く”から生きる」

もう一度、指を鳴らす。

「入れる、抜く。入れる、抜く」

 ゆっくりと動かす。

「君はずっと“入れっぱなし”だ」

 肩を軽く揺らす。

「呼吸の瞬間、全部抜いていい」

「全部……?」

「全部」

 即答。

「その代わり、次で全部入れる」

 間を取る。

「その差が、“ノリ”になる」

 鼓太郎の目が変わる。

「……やってみます」

 ――スタート台へ上がる鼓太郎。 笛が鳴る。

「いいよ、呼吸で抜く!」「入水で入れる!」

 最初はぎこちない。だが、徐々に。

 抜く。

 入れる。

 抜く。

 入れる。

「……あ、これ……!」

 体が軽い。前に出る。

「そう、それ!」

 一ノ瀬が笑う。

「今のが君のリズム!」

 鼓太郎の動きが変わる。無理に回していない。

 でも、速い。むしろ伸びている。

「楽しいだろ?」

 鼓太郎が笑う。

「めっちゃ楽しいです!」

「それでいい」

 指を鳴らす。

「水はステージだ。踊れ」

 鼓太郎の泳ぎが、跳ねる。

 水の上で、リズムが弾ける。

 ◆夜、食堂にて――

「……ぷはぁ、食った食った! 一ノ瀬コーチのメニュー、マジでダンスの練習よりキツいわ」

真っ先に口を開いたのは、鼓太郎だった。白米をおかわりしながら、隣に座る遥斗をつつく。

「てか、遥斗! お前今日すごかったじゃん。ベスト更新とか、マジでやるねえ!」

「……ありがとう。でも、自分でもびっくりしてて。今まで、伯父さんの記録を抜かなきゃって事ばかり考えて、空なんて見たことなかったんだ」

遥斗は、少し照れくさそうに箸を動かしました。

「滝沢コーチに『空を見て』って言われて……今日、初めて泳ぐのが怖くないって思えたんだ」

「ふん、メンタル一つでタイムが変わるなら苦労はない」

向かい側でタブレットを片手にサラダを突っついていた怜が、皮肉っぽく鼻で笑う。しかし、その視線は自分の動画ではなく、堂島に渡された「かつての記録」に向けられていた。

「……でも、僕も認めるしかないな。データだけじゃ説明できない『空白』が、確かにある。目隠しをして泳がされた時は、死ぬかと思ったけどね」

「目隠しって……。堂島コーチ、やっぱり変人だな」

湊がボソッと呟く。その脚には、荒城に叩き込まれたキック特訓による、激しい疲労の色が残っている。

「湊、お前こそ荒城コーチにボロクソ言われてたじゃん。大丈夫かよ?」

鼓太郎が心配そうに覗き込むと、湊は少し間を置いてから、静かに言葉を返す。

「……荒城さんは、うるさいし、強引だ。でも、あいつに言われるまで、自分が震災の、冷たくて黒い水の感触をずっと引きずってた事に気づけなかった。……今は、脚が熱い。初めて、自分から水を掴みに行きたいって思ってる」

「何だよ湊、らしくない熱いこと言うじゃん!」

「統計学的には、まだ不可能に近い数字だ……。でも『バグ』を、この4人で起こしてみるのも悪くないな」

「僕も……みんなの背中を、誰よりも早く繋ぎたい。背泳ぎは、一番手だから」

「よし。……明日の練習も、絶対食らいついていこうぜ」

湊の言葉に、4人の拳が自然とテーブルの中央で合わさった。

バラバラだった「はみ出し者」たちが、一つの「チーム」として、本当の意味で動き出した夜だった。

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