その九
こんな老母とその息子に出逢いたいです。そして一緒におにぎりを食べながら、話を聴きたいです。それにこの宿屋の女将も良いではありませんか。実に良いです。私なら、この女将に会う為だけに夜半この駅で降りると思います。
最後は駅蕎麦売りのおばさんです。飾り気が無く、人が良い。けれどもその素朴な様子の背後に、永く続く苦労の一生が続いている。私には、魅力的な人達ばかりです。
母親は、
「ほほほほっ」
と笑いその後で、
「そんなもんはありませんでしたが、あの子の父親が良い人だったからだと思いますよ」
と言った。そしてまた直ぐに、
「夫は昔気質で穏やかな良い人でした。私の上の四人の姉妹は皆不幸な一生を送りましたが、どうしてか私だけは一生幸せでした。どうしてなんでしょうかねえ。私は姉さん達の幸せまで自分が取ってしまったのではないかと思ってるくらいなんです」
と話した。最早、私には何も言えなかった。
「ほんとに、良い息子に育ってくれて……、嬉しいです」
この老婆はここでまるで若い娘の様な屈託の無い嬉しそうな笑顔を見せた。私は暫く黙った後で、
「この先、お婆さんの一生が平和で幸せなものである事を祈っていますよ」
と言った。老婆は、
「有難う御座居ます」
とそう言って笑顔のまま小さく頭を下げた。私も頭を下げその場を立ち去ろうとした時息子が戻ってきた。
「はい。よろしければ、どうぞ」
青年は私の前に大きめのおにぎり一つと湯呑の茶を差し出した。私はそれを頂き、
「御馳走様でした。有難う御座いました」
と言って足早に廊下に出た。その後私は一度もこの二人の方を振り向いていない。廊下は足音が響き易いものだったのであまり足音がしない様忍者の如くにして歩いた。
私は眩暈がする様な感覚に襲われた。私が普段ずっと水面の上を進んでいたのを今何故か此処で、この場所で、海の底に潜って普段見えないものが残らず見えた様な気がしたのである。そしてその此処で見えたものというのが決してこの場限りのものではなく、完全に私の一生の記憶となって残るものである事を強く予感した。何故そう思ったのかは判らない。しかし何か、次から次に私の心の奥の敏感なものに触れる。乱雑に鷲掴みにするのではなく揃いも揃って優しく、まるで尋ねる様に、何かを問い掛ける様におずおずと触れて静かに穏やかに立ち去って行く。
私は自分がその場所に立っている事に合理的で納得のいく説明をつける事が出来なかった。窓の外に見える真黒な闇の空を茫然と見上げるばかりだった。
「何故、この場所は……、この場所では、こんなに何も彼もが丸裸で在るのだろう」
何も覆い隠されていない。誰も隠そうとしていない。寧ろ自分から他人に伝えたいと思っている。私は皆よりも先にこの旅館を出る事にした。今の自分の表情をあまり他人に見られたくなかったからだ。闇の中、独り立っているのが良い。或いは独り歩いているのが良い。落ち着く為に、本当に落ち着いて自分の心を整理する為には、普通の人間は何か作業をしながらでなければならない。それが出来ないのであればせめて一人で居るべきだ。
「幾らですか?」
旅館を出る時、私は女将らしい人に尋ねた。
「何をお召しになりました?」
「握り飯三つ、酒無しです」
「そうですか。では今回お代は頂きません」
私は吃驚して女将の顔を見詰めた。そして数秒の沈黙の後に尋ねた。
「どうしてですか? 理由が判りません」
女将は静かに私を見上げて言った。
「お客さん、今夜うちの他のお客さんの話を色々聴いてあげてたでしょう? 見てました。私はそれに感謝したいんですよ」
私は反論した。
「でもそれは自分で勝手にやった事で。それに相手から聴いてくれと頼まれたのではなく、自分から聴きたいと思ったからした事で」
「何であっても、私は嬉しかったんですよ。お代を頂かないのはその気持ちです。またのお越しを」
そう言って女将は宿屋の女将らしく深々と腰を折って私に辞儀した。なおも私が困った顔をしていると女将は、
「私もあれ、やりたいんですよ。でも女には出来ない事もあるんです。おまけに此処の女将ではね。お分かりですね?」
と言って笑いながらそのまま行ってしまった。私は恥ずかしいやら申し訳無いやらで速足で歩いて駅に戻った。しかし闇の道を歩きながら次第に明るい気持ちになっていった。そして駅に着いた時には瞼に涙を浮かべていたと記憶する。
夜中の二時に開いているホーム上の駅蕎麦というのを私は知らない。闇の中に一灯だけ裸電球が点っており、よく見ると湯気がほのほのと立ち上っている。裸電球一つというのが強烈に旅情を掻き立てる。淋しさ侘しさ、しかし何か温かい希望も混じった光を周囲の闇に投げ掛けているが、兎に角それを観る者の心を鎮める。仮令失恋した直後であってもこの光を見るならば穏やかな気持ちになるだろう。私は窓口に近付いた。駅蕎麦だけではなく売店も開いている。駅蕎麦と売店が真ん中の壁で区切られていて、その間に縦に細長い穴が開いている。店員が売店の売り子でもあり、駅蕎麦の蕎麦出しも担当するという仕掛けなのだ。
私は売店の周囲を蜂の様にうろついた。私は缶入りのピーチネクターを買い、売店のおばさんに話し掛けた。
「夜中もお店開けてるんですか? 大変ですね。買えて嬉しいですけどね」
売店のおばさんはどちらかというと無表情な顔で私に返事した。
「ああ。こんな山の中だけど、この駅じゃあ夜中も夜行列車が停まる上に始発も早いからね。それに旅客列車以外でも夜中の貨物列車の運転士や車掌も買いに来るんだよ」
「じゃ、おばさんは今日は夜番という事ですか」
「そうだよ。昼間はあたしの姉が此処に立ってる」
「御苦労様です。ぽろぽろ注文して済みませんが、かけ蕎麦一杯頂けますか?」
「はいはい」
「いや、ぽろぽろ注文したら悪いので、最初から二杯頼んでおきます」
すると無表情だったおばさんは笑い出し、
「別に一杯食べ終わってから次のを注文してもらってもいいんだよ。面白い人だね」
と言った。
「おばさん、面白いではなく優しい方と言って頂きたいですな」
猶もおばさんは笑って蕎麦を茹でながら、
「はいはい」
と返事をした。
「今の季節は良いですけど、真冬なんか大変でしょう。広島でも寒いのに、此処だと尚更じゃありませんか」
私がそう言うと、
「うん、けどね、慥かに寒いけど、山に囲まれてるから風はそんなに強くない。北西の風は其処の山が防いでくれる。怖いのは雪だけど、これも大変なのは駅員や機関士さん車掌さん、或いは運転中止になるお客さんだからね。売店のあたしはそんなに困らないよ。気楽なもんだね」
と実に軽そうに言う。
「売上にはひびくでしょう?」
おばさんはあははと笑って言った。
「時間でお金貰ってるからね、売り上げには関係無いんだよ」
「そうですか」
「はい、どうぞ。一杯目」
ちゃんと時間差を作って、蕎麦を茹でてくれているらしい。私は一杯目の蕎麦を啜りながら不思議とまだ入る自分の腹の事を思った。
「おばさん、この蕎麦、本物ですね。とても太くて蕎麦の味がしてる」
「うちで打った蕎麦だよ。山間地はお米よりも蕎麦の方がよく穫れるからねえ」
そう言うとおばさんは急に悲しそうな顔になった。
「うちの両親は一生ずっと蕎麦を作って、亡くなったよ」
一寸時間をおいて私は尋ねた。
「お家が農家で、蕎麦を作ってらしたという事ですか」
「うん。けど貧しくてね。かといって、お金になる作物は作るのが難しいし……、失敗した農家だって多いんだ」
大変だったのだろう。私の友人にも一人、中学を卒業したら高校に行きたいと言っていたが農家である家の事情で進学を諦めた人間が居る。
「あんた、ご両親はまだ居るんだろ?」
「はい」
「今のうちに、大事にしてあげたが良いよ」
「勿論、その心算です。就職は家の近くですし、給金貰う様になったら直ぐに家に入れます」
「それが良いね」
暫く沈黙が流れた。
「今は、就職が決まった祝いの一人旅なんです」
私は何でもいいから、言いたかったのだ。
「私は働かないといかんからねえ。鉄道に乗って彼方此方旅行出来る様な身分じゃない」
何処か遠くで汽笛が聞こえた。もう米子行きの快速が近付いているのだ。私は落ち着かなくなった。いや、落ち着かなくなっているのはもう暫く前からずっとだ。私は米子行きの快速が来ない事を祈る気持ちになっていた。
「もう少し、此処に居させてほしい」
私はそう思った。しかし同時にこうも思った。
「それは叶わない事だ。それは、人間に許されていない事なのだ。私はそういう事が決まっている、その条件の下で生きていかなければならない」
これが若しも現実の誰かに拠って私に加えられた制限であったならば、私は全力で抵抗しただろう。いや、決して『その下で生きていかなければならない』などとは思わなかっただろう。しかし私は驚く程素直に自分を縛る目に見えないこの法則、秩序に身を任せ、服従した。その秩序は私にこの大切で重要な時間の終焉を告げていた。しかしそれは今夜私に旅館で、またこうして駅のプラットフォームで、こんな意味のある時間を過ごす事を許してくれたのと同じ秩序だ。それは私に与え、そして今、奪う。いや、私の目の前からだけ奪うのだ。その法則は私に告げなかっただろうか。
「御前の中には最早それが、永遠に消える事無く刻まれたではないか」
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