その八
成功しているのに、恥じている。自分自身の願いに忠実ではなかった一生を顧みて、恥じている。そういう年配の男性です。主人公の若い青年は、精一杯の誠実をもってこの男性に相対します。
上手く言葉に出来なくてもいいではありませんか。尊い誠実、思い遣りはちゃんとこの男性に通じているのですから。
男は何も答えない。
「あなたは、人の中で生きたかったのではありませんか?」
私がそう言った時男はぐうっと背筋を伸ばし、私の顔を見詰めた。しかし矢張何も喋らない。私は続け様に言った。
「あなたは自分の生きていくべきかたちを具体的にもっていた。けれどもその道では自分が生きていけるかどうか判らなかった。自信が無かったんです。あなたの抱いた形の通りの生き方というのは、慥かに一つの生き方だと思います。実際にそういう生活を実践している人を見たら、私は尊敬以外の感覚をもたないと思います。限り無く尊敬すると思いますよ。でもその生き方というのは、言ってみればもう死ぬ覚悟が出来ている人間のする生活の様な気がするんです。違いますかね? 誰もがそんな事が出来る訳ではないでしょう。寧ろ死ぬ覚悟なんて、死ぬ三十分前に出来たら良い方じゃないでしょうか? 詰まり、その生き方が正しいのは正しいんでしょうけれども、人の中で生きたい、仮に人の中で生きる事に何らの希望を見出す事が出来そうにないとしても、それでもこれから自分の人生が始まろうという時に最初から死ぬ覚悟はもてないし、人の中で生きたいと思ったから、あなたが実際に生きてきたそういう道を選んだんです。それがあなたが会社を創って生きてきた事、いえ、会社を創って社長になるにせよ、何処かの会社に社員として就職して生きるのにせよ、社会で生きるという事をしてきた理由、それを続けてきた理由ではありませんか?」
私の表情にほんの少しでも嘲笑の色が浮かんでいたならこの時男は私との対話を已めただろう。しかし私にそんな気持ちはさらさら無い。そんな気持ちを私が感じたのであれば私の方から席を立っている。
「生きたかった、それもまだ若い時に、そう思った。それで良かったのではありませんかね?」
「あなたは、まるでもう年配の人であるかの様な話し方をされますね」
そう私に言った男の顔にも全く嘲笑の色は浮かんでいなかった。その事を認識した途端、私は再び止まらなくなった。まるで私は父と話をしている様でもあり、また私が父になって誰か他人と話している様でもある、そんな気になった。
「私も直ぐしたら就職です。これでようやくお金の面で両親を助ける事が出来ます。私にはそんな風に、畑を耕してたまに町で賃仕事をしてといった様な具体的な想像はありません。でも、自分の正しいと思った事に忠実に生きようと思っている事は本当です。そしてそれを通せるかどうか不安です。それはあなたのその畑仕事と賃仕事の夢と全く同じで何も変わらないんじゃあありませんか? 私だってこれから私の働きの収入で何事かをしていくでしょう。両親が老人になったら、それこそ私の収入で助け支えなければなりません。その時私が私の信念に純粋に沿う仕事をしていなかったとしても、私は自分のその仕事を続けると思いますよ。それが生きるという事ではないですかね? 生きたい、そう思うのであれば、生きたら良いのです。そしてその手段が昔の自分の夢を裏切っているのであれば、裏切ったら良いのではありませんか? そして裏切った結果、あなたが後悔しているのであれば今から改めたら良いのですし、後悔していないなら今のまま行けば良いのだと思います。いや違う、こんな事じゃない、私が言いたいのは、こんな事じゃあないんです」
私は話し続けている間中、男の反応を見ていた。しかし思った通り、男は何も喋ろうとしない。完全に私の喋りが終わるまで黙っている心算だ。聴く気なのだ。
「既に終わったのですか? そんな事ありませんよね? まだ続いている筈です。まだ続いているんです、ものの見事に。そんなもの、死ぬまで続くんですよ。だから、今から自分の納得の為にやれば良いのです。それだけです。私に言わせれば、今、その年齢とその御立場でそれだけ昔見た夢の所為で悩んでいる、その事を真剣に想う事が出来る、それがどうしてもう終わってしまった人の取る行動ですか。その事が一番明確に、私の言った事が正しいと証明していると思いますよ」
私はそう言って自分の想いを全てこの男に告げた。しかしまだ足りないと思って更に最後に付け加えた。
「私はね、本来こうは言わない人間です。多分、あなたでなければこの逆の事を言っていたでしょう。しかしあなたには私、こう言いたいんです」
男は油の切れた機械の様に動かなかった。目の玉さえ動かなかった。視線を畳に落としたまま静かに呼吸を続けていた。暫くして男は私にぼそりと言った。
「有難う」
私は驚いた。その声は今までの男の声と全然違った、低く太い声だったのだ。静かに言ったにも拘わらず、男のこの感謝の言葉ははっきりと聞こえた。何か、空気までもが少し揺れた様な気がした。これが、この男の普通の、本気の、自然な声なのだ。私はその声を聞くと途端に元気が出てきた。年長者を相手に遠慮知らずに喋っていた事への申し訳無さが吹き飛んだ。それで良かったのだ。
男は背広の内ポケットから名刺を取り出し無言で私に手渡した。笑顔ではなかった。しかし男が私に感謝している事はよく分かった。私は頭を下げ、男に言った。
「また手紙します」
男はすっと立ち上がり、座ったままの私に微笑んだ。私は軽く男に頭を下げた。すると男は静かに部屋を出て行った。しかし私は男が部屋を出て行くなり自分の言動を後悔し始めた。男は単純に誰でもいいから自分の話を聞いてもらいたかっただけなのではないかと思えてきたからである。私は何も言わず、ただ聞けば良かったのかも知れない。しかし、しかし……私も嘘は吐いていない。仮令私が間違いを犯していたとしても、私は赦されるだろう。
大分空きが出来た広間の隅に私は移って、米子行きの時間まで静かに過ごそうと決めた。もう私の胸の中は何かよく分からないものでいっぱいだった。そう、よく分からないものでだ。しかしそのよく分からないものはその全部が蝟集し、集まって何か一つものに収斂していく予感がした。それがいつ自分に実感され、またその一つになった結果に私が何と名付けるのか、それは私の知った事ではない。けれどもそれが今私の胸の中に渦巻いている以上、最早私は今これ以上何かを自分の中に受け容れる事が出来ない。私は座っている姿勢を崩し、半分眠る様な感じで襖に凭れ掛かった。
ところが私が座った場所の直ぐ横にまだ三十前くらいの青年と老婆が二人して笑顔で握り飯を食べているのに気が付いた。それが二人共何ともいえぬ程に幸せそうに微笑んでいる。冬の木枯らしの中で焚火を見出した時の様に私の気持ちはふらふらとそちらに向かってしまった。私の胸の中はもういっぱいで何も新しいものが入る余地は無かったのではないのか。そうなのだ。人の胸にはもういっぱいであるのにまだ入るのだ。自分が欲しいと思っているもの、心の底からそれに餓えているものは、いっぱいの胸に、心に、まだ幾らでも入る。私はこの事を想い返すと今改めて涙が出る。
二人を見詰めている私に気付いた若い男が私に向かって微笑んで言った。
「いえね、私、やっとまともな給料が貰える身になったので、母を連れて広島の姉の所に遊びに行ってきた帰りです。老齢の母を連れて、二等で」
「ほう、それは親孝行な事です。お母様もお喜びでしょう。二等とはまた親孝行な」
「三等はお客でいっぱいですし、一寸ゆっくり、空いた車内で行きたかったですから」
杖を横に寝かせた母親も嬉しそうな顔をした。慥かに老婆ではあるがそんなに高齢という感じでもない。農作業の日焼けだろうか、焦げ茶色の顔だったが皺もそんなに深く刻まれていない。
「息子が、二等で娘の所に連れて行ってくれましたんです。はい」
その声はかすれてもおらず穏やかで張りがあった。私は嬉しくなってしまった。
「良いですね。あなたの様な立派な人に逢うと、私も母に孝行をしなければと思ってしまいます」
青年は穏やかな笑みを浮かべていたが暫く黙っていた後でこう言った。
「母が、こうして外を出歩ける年齢に間に合って良かったです。今の私は他に何か嫌な事があっても、かなり沢山あったとしても、それでも嬉しいです。母の喜ぶ顔が嫌な事を皆忘れさせてくれます。いえ、忘れないままで、覆い隠してくれます」
「…………」
「いろんなものは過ぎ去って行きます。絶対になくならないものだと思っていても、或る日突然無くなって、最早二度と再び見る事は出来ません。これは悲しい事です。だから、自分の手が届く間に大切にしたいのです。私には今それが出来るのですから」
そう言って青年は座っていても少しだけ前屈みの母親の手を強く握った。その時母親も息子の手を握り返したのが分かった。私は嬉しいのを通り越して泣きそうになってきた。
「お母ちゃん、僕一寸御茶の温かいのと、あとおにぎりをもう四つ程頼んでくるよ。待っててね。此処で食べて、残ったら汽車の中で食べよう」
「うん、有難な」
「直ぐに戻ります」
そう言って青年は座敷を通って厨房の方に歩いて行った。
「お母さん、良い息子さんですね」
「はい。なんでか、とても親孝行な子になってくれて、私は嬉しいです」
私はわざと一寸意地悪そうな表情を浮かべて言った。
「何か、物凄く親孝行になる薬でも飲ませたのではありませんか?」
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