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その七

 『今の男も間違い無く私だ』。この自覚が大事なのです。どうしてもこれが必要なのです。心の底からそう思う事の出来る、他人との対話。そう思う事の出来る心で居たいです。本当に。

 私は驚いた。それをやったのか。

「すると子は立派に大人になって、妻の家から仕事に出掛けている様です。妻も年配になりましたが、特段病気もせずに暮らしているそうです。その調査を頼んだ人がそう報告してくれました。こう言っては何ですが、病気ででも居てくれたら、私からのお金を受け取ってくれたかも知れないですが……」

 聞くのが嫌になったら私も何一つ口にしないまま黙って立ち去れば良い。私は聞くのが嫌にはならなかったが、つらくなっていた。しかしそれでも何かが私をその場所に引き留めた。

「妻の按摩をしてやりたいです。あれは肩凝りが酷かったですからね。でも、それももう手の届かぬ事です。私にはもう何も出来る事が無い」

 その後で男は暫く黙った。

「誰に話したとて如何(どう)成る訳でもないのですが……、あなたも今から十年の間に、そんな事にならない様に気を付けて下さい」

 私は一呼吸置いてからゆっくり、

「はい」

と真面目に返事した。しかし私はどうしても一言言いたかった。

「でも、何か、何か、出来る筈ですよ。今からだって……」

 男の顔は月明に照らされてその凹凸の陰影がはっきりと浮かび上がっていた。目と口が少し開き、頬が伸び、疲れた表情に怪訝な色が混じって私が出逢った最初よりもこの男を老けて見えさせた。しかし男は悄然と両肩を窄(すぼ)め、項垂れて闇の中を駅の方向に歩いていった。本当に自然に闇に吸い込まれて溶けていく様な消え方だった。私は想った。

「今の男も間違い無く私だ。もう一人の私の姿を、今私は見たのだ」

 私が何かを忠実に守って生きたら、今の男の様にならずに済むのだろうか。そんな気もした。しかしそうでない様な気もした。私は先刻の男と同じ様に意味も無くただ縋(すが)る様に月を見上げた。

 私とあの男との違いは何なのか。私は自分の家族、大切な人を捨てる様な人間ではなく、あの男は捨てる人間だったという事か。私は何か違う気がした。それではないと強く感じた。そういう『本質的』な部分の違いではないのだ。私とあの男とは何も違わない。違っているのは私が未だ『それらを経験していない』事であり、あの男はその時を、その場所を、最早過ぎてしまったという事だけではないのか。あの男に降りかかった運命というのはそのまま私の頭上に落ちてきたとしても何ら不思議では無いものだ。私だって拒否するとなったら断固拒むからだ。私はそれを知っている。そうではないだろうか。私は身震いした。闇に消えた男の姿は最早(もう)何処(どこ)にも見えない。

 私は不図(ふと)腕時計を見た。一時半を過ぎている。旅館で大勢の客の騒(ざわ)めきが聞こえた。次いで沢山の人間がどすどすと廊下を歩く音がして、軈(やが)て旅館の入り口から荷物を持った人々がぞろぞろと身を引き摺る様にして出てくる。広島行きの下り快速ちどりが到着する。それに乗り込むのだ。私は静かに駅方向から遠ざかり、再び旅館に入った。広島に向かう快速列車に乗る人達の中には今し方私が話をした人達が居る。私はその人達と顔を合わさぬが良いと思ったからだ。見送りたい気持ちは勿論あった。けれどもそっとしておかなければならないという気持ちが勝った。私は今でも私のこの時の判断を正しかったと思っている。


 旅館の仲居が、

「あれっ? お客さん、忘れ物? さっきお金払って出て行ったのに……」

と私に尋ねる。

「いえ、元々二時四十六分発の米子行きに乗る心算(つもり)でしたから」

と答えて更に、

「握り飯三つ、注文出来ますか?」

と頼んだ。

「分かりました」

 仲居は何も怪訝そうな顔をせず素直な笑顔で私の注文に応じた。良い仲居だ。

 私は再び広間に上がり、今度はそのほぼ真ん中にどっかと座り込んだ。広間は縁側が開けられて外の風が存分に中に入る様にしてあるが、抑々(そもそも)風があまり無い日なので部屋の中には酒と料理の匂いが残り如何にも宴の後という感じである。なおも乱れて大声をあげる者、静かに品良く夜食を食べている者、楽しそうに談笑している二人組、こんな所に居るくらいなら夜中の駅のプラットフォームで待ってた方が余程良いと我慢出来ずに出て行く者、様々な人達が居る。そんな中際立って目立つ男が一人居た。これも中年、いや壮年と言った方が良い年齢の人間だった。大柄の体格だが顔が非常に優しそうでとても温厚な人間に見えた。夜食の膳を前にして、もう食べ終わった様子である。時々湯飲みを自分の口に運びながら思い出した様に周囲を見渡していた。私は席をその男性の前に移した。その時ちょうど私に握り飯の膳が運ばれてきた。

「此処(ここ)、宜しいでしょうか?」

 私は自分の膳を抱えてその男の正面に座った。男は、

「はい。どうぞ」

と短く答えたが、その声はとても小さなものだった。私は早速飯を食べながら男に話し掛けた。

「私は旅行している者ですが、あなたもそうですか」

 男は右手に湯飲みを持ちながら私の方を見、そして無言で頷いた。何か話を聞きたいものだ。私がそう思っていると直ぐに男は自分から話し出した。

「尤も私の旅行ってのは、遊びに行ったのではなく供養の為ですがね」

 酒に酔ってはいない様だ。

「供養と仰いますと、どなたか御身内の方の?」

「いいえ」

 私は何故だかこの時、男のこの『いいえ』というのが非常に気になった。勿論身内でなくとも人の供養をする事はある。一生の友人であるとか、或いは誰か仕事で世話になった恩人とかである。しかし私はもっと違う何かの様な気が強くした。そして私がそう感じた事を自分で不思議に思った。

「身内でもなく、またそれらの知り合いでもないとしたら、一体どういう関係の人間の供養なのだ」

 何かもやもやしたものが私の裡(うち)に溜まってきた。私は何かを忘れている。私が強烈に納得出来る何かを。それが分かりそうで分からない。私にはこんな風に、まず先に私の感覚が何か正体の分からないものの輪郭だけを伝えてくる、そんな事がよくあるのだった。それは通常或る程度の解説を必要とするものだ。しかし私の感覚はそんな親切な説明などしてはくれない。突然に決着すなわち印象だけを私の眼前に運んでくる。だから私は後追いでその事の意味、関連、真価を定める作業に追われる事になる。そしてそれらがちゃんと終わりまで遂行されないと言い様の無い不快な未消化の感じが胸に残るのだった。

「おい、どうした。そこまでか? そんな無意味な事を、あの出来事は御前に告げたのではないだろう?」

 そんな風に私の中に居残って末永く気味悪く風化せずに存在し続ける。そんな事を解決したところで私にどれだけの福利があるのか分かったものではない。逆に未消化で放っておいても実はそれ程に有害なものではないのかも知れない。しかし記憶から消えない事は事実だ。だから私は何か世の中の事象に接する度に一々困る羽目になる。しかし所詮私は自分のこの特質に逆らう事は出来なかった。これは生理的な力なのだ。

「私は、自分が若い頃見た夢の供養に行ってきたのですよ」

 私が何も言えず悶々としていると突然男がそう言った。

 私は男が突然喋ったという事自体にも驚いたが、その言った言葉の内容を理解した時硬直してしまった。それは身内でも知り合いでもなく、そう、抑々(そもそも)人間の供養ではなかったのだ。その事を理解した時、私は先刻男が言った『いいえ』が砂地に水が浸み込む様に納得出来た。自分の感じていた違和感が完全に氷解した。そうだ。男の『いいえ』に繋がるのに最も相応しいこれが正体だったのだ。私は俄然元気になった。いや、これは元気ではない。私こそ瞬時にして酔ってしまったのだ。

「夢の供養とは面白いですね。差支え無ければ、是非その夢供養のお話を聞かせて頂けませんか?」

 男は湯飲みの茶を飲み干し、少し背筋を伸ばして喋り始めた。

「私は今五十歳ですが、山陰で小さな会社の社長をしています。社員の皆が頑張って働いてくれるので、ここ十年程会社の経営は順調です。御陰で私も年に二回くらいは旅行出来る様になりました」

「それは何よりです。会社の経営に成功されたのですね。沢山の人がそれを望んで、そして残念ながら失敗してしまった……、屹度(きっと)あなたが社長として有能だったからですね」

 男は軽く頭を下げた。しかし男の表情から私は男のその挙動に何らの実感も込められていない事を悟った。

「私は暮らしは何とかなっているのですが、安らいだ気持ちで居る事は出来ないのです」

「失礼ですが、それは何故でしょうか?」

「私がまだ中学生の頃、或る夢を見ました。その夢で、私は田舎に独り住んで畑を耕して、時々町に出て何かの手伝いをして最低限のお金を稼いで、そうして生きていくのが良いと示されました。そういう暮らしをしないと、何らかの意味で私は不幸になるという夢でした。私は心から納得して、その時の将来の夢としてそういう暮らしを抱いたんです。でも現実には私はそう生きてきませんでした」

 私はこの男性の事をどんなに親しく、そして哀しく思っただろう。まるで自分の家族の如くに感じた。

「私は自分の目指すべきもの、そしてその指針をちゃんと知っていたのです。にも拘わらず私はそれに従わず、自分が本当に大事であると思うものではないものを追求してきました。その結果が今の私です」

 私は即座に口を挟んだ。

「しかしあなたは今会社をもって、成功しておられるではありませんか。それは本当に祝すべき事です。若しどうしても昔のその夢の暮らしをすべきだと思うのであれば、今からでもそれは出来るんじゃありませんか?」

 男は殆ど表情を変えなかった。しかし私は男が私の言葉に苛ついた感じを受けた事をちゃんと見て取った。男は言った。

「今から、詰まり私が五十過ぎから、自分の一生の多くの時間を費やした後で、殊に自分の生活の目途が立ってからそういう畑と手伝い仕事の暮らしをするという事ではないのですよ。そう。畑と手伝い仕事という、そういう『かたち』を言っている訳ではないのです。それは私がそういう一生の指針を若い頃自分に与えられ、受け容れ信じたものに忠実に従って生きてきたかどうかという事なんです」

 男の言う意味はよく分かった。私は十分納得した顔で、

「はい」

と言った。男は続けた。

「私は自分の一生の間中、ずっと後ろめたく思って生きてきました。他人に言わせれば贅沢な悩みだと笑われますからあまり言わないのですが、それでも他人の批評が私にとって何か重要でしょうか? 自分が如何(どう)思うか、感じるかがすべてでしょう?」

「それはそうだと思いますが……」

「気にし過ぎだと仰りたいのでしょう?」

「…………」

「でも、自分が何事かを気にするかしないかが、自分の随意になるものでしょうかね。そんなに便利な人間に私は今まで出逢った事がありませんよ」

 私は黙っていて、暫くして全く別の事を喋った。

「失礼ですが、今までずっと独身でこられたのですか?」

「はい。ずっと未婚です」

 私は男に尋ねた。

「どうして、会社を創って生きていくという道を選んだのだと思います?」

「分かりません」

「いえ、多分あなたなりの理由がちゃんとあって、それももう自分で分かっておられるのではありませんか?」

 ブログは毎日更新しています。

https://gaho.hatenadiary.com/

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