その六
後悔に沈む人だって居るでしょう。それをこんな風に言葉に出すかどうかは別として。主人公の青年は謹んでこの男性の話を聴きます。何がこの主人公の青年に『謹んで聴く』姿勢をとらせるのでしょうか。
もうあと数秒で私が落涙しようという時、突然私達の直ぐ近くで子供の声がした。
「お父ちゃん、もう起きる時間?」
眠そうに腕で眼を擦りながら、小学校五、六年くらいの男の子が男性の横にやって来た。私と話していた男性は振り向いて、
「ああ、そろそろかな。あっちで顔洗っておいで。ほら、これ手拭」
と言い鞄から取り出した手拭を手渡すとその男の子は、
「うん」
と素直に返事して洗面所の在る方へと行ってしまった。勿論私の涙は引っ込んでしまった。そして呆気にとられて言った。
「あれは……、『お父ちゃん』って言ってましたけど、息子さんですか?」
男性はにこにこ笑って言った。
「そうです」
「でも、結婚はされなかったって……」
私はそう口にした途端、自分で何も彼も理解した。男性は落ち着いて説明してくれた。
「はい。あれは私が貰い子した子です。親が病気で亡くなった身寄りの無い子を引き取って育てました。あの子の他にもう一人居ますが、そっちはまだ小学校二年でおまけに女の子なので、妹の所に預けてきました」
私は頷いた。と同時に自然に深く息を吐いた。そしてさっきとは別の涙が瞼に湧いてくるのを感じた。
「今から思えば、もっと早くにこういう事を始めておけば良かったと思います。でも、それも時が満ちて縁が結ばれないといけなかったんですね。あの子達との縁があった事も、それも私は父母やおばが引き合わせてくれたんだと思っています」
矢張腕で目を擦りながら男の子が戻ってきた。また畳の上に寝転がろうとする男の子に荷物を纏めながら男性は笑顔で言った。
「おい、御前が夜汽車に乗りたいって言ったんだぞ。もう直ぐ下りの快速が来るから寝るな。今寝たら此処でそのまま眠ってしまうぞ」
「はーい」
男の子は欠伸をしながらそう言った。
「あんまり目を擦るな。黴菌入るぞ」
「うーん」
「ではこれで。名も知らぬ方、私の話を真面目に、真剣に聴いて下さって有難う御座いました。あなたの旅も無事に、そして実り多いものである様祈っていますよ」
男性と男の子は酔っ払って寝入ってしまっている男達を上手に避け、跨ぎながら出て行った。ちゃんと忘れ物も無く残らず荷物を持って行った。
私は二人の道中が楽しいものになる事を心から祈った。男性は『あなたの旅も』と言った。勿論それはこの旅と、それから私の人生全体の事を指しているのだ。私は何も言わずに二人を見送ったが、二人が広間を出て行ってその姿が見えなくなった後で急に涙が溢れてきて泣いた。この時の涙を私は説明出来ない。嬉しかったのと、切なかったのと、幾つかの強い感情が混じり合った涙だった。私は席を立って出口で飯代を払い、旅館の外に出た。そして自分の心を落ち着かせる為に夜空を見上げた。遉に星が綺麗だった。私は心が豊かになるという事がどういうものか、その時胸に何を感じるのか知った気がした。幸せは本当に感じるものだ。考えるものではない。
旅館の前庭は結構暗い。月明は煌々としている上に直ぐ側に殆ど夜を徹して活動する駅の灯りがある。しかし道を歩くのは何も苦にならないが物陰に入るとその隈の暗さは本当の闇だった。大きな木の幹の影になっていて初めは分からなかったが、私の横に同じ様に宙空の月を見上げている人間が居た。私がそれに気付くと相手も闇の中に居るままではいけないと思ったのだろう、月の明かりの届く場所に出てきた。
「こんばんは」
相手が先に言った。私も応じた。
「こんばんは」
見れば立派な背広を着た中年の男性だった。しかし月明かりの中に入って最初にその顔が見えた時、私は先刻の初老の男性とは全く違うものがこの男性の表情に浮かんでいるのを見て取った。いや、浮かんでいるのではない。これはもう永く、永く何らかの想いに圧し付けられて形が変わってしまい、固まってしまった顔だ。私はそう思った。私は本能的に身構えた。
「広島行きですか、米子行きですか」
相手は私にそう尋ねた。
「米子行きです」
私がそう答えるとその男は自分がした質問なのにそれに興味をもっていない様子で、
「そうですか。じゃあ、遅い方ですね」
と言った。あまりこういう表情の人間に応じるのは良くない。私はそれをよく分かっていた。しかし私は我慢する事が出来なかった。
「あなたはどちらに? 広島行きですか?」
「はい。もう直ぐ出ます。見ればまだお若い、御旅行ですか?」
男の声の調子は何か、本を読んでいる様な感じだった。何だか独特の抑揚である。独特で適切に上手く表現出来ないのだが、それでも生きる力を感じさせないものである事だけは間違いが無かった。
「はい。夜行列車が好きなので、時々こうして目的も無く放浪しています」
何故か私は嘘を吐いた。私は放浪しているのではなかったのだから。しかしどういう訳か口から出てきた言葉がそれだったのである。
「そりゃあ気楽で良いです。若いうちに見聞を広めておいて下さい。私はもう、そんな元気はありません」
「こう言っては何ですが、あなたもそんなに御年齢には見えませんよ」
男は疲れた顔をして言った。
「そうかも知れないですなあ。でも私はもう一生を終えたも同然です」
「生きている限り一生は続くものではありませんか? 自分がすべき事は尽きる事が無いと思いますが」
男はふふんと笑って言った。
「いえ、自分の一生とは思った様にならないもんですな。慥かに会社にはちゃんと勤めていますがね」
そして男は私にその会社の名を告げ、名刺を差し出した。広島でもかなり大きな会社だ。それは誰もが知っている。
「これはこれは失礼しました。有名な、立派な大会社にお勤めなんですね」
男は私の言には何も反応を示さずに喋り出した。若しかしたらもう大分酒が回っているのかも知れない。
「広島で今の会社に勤めて十五年になります。御陰様で今は幹部の地位に居ます。借金もありませんしね。来年の春には、若しかした支社長くらいにはなれるかも知れません」
初めは自分の会社やその地位を自慢しているのかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。何というのか、こう、喋る事なら何でもいい、口にしようといった感じなのだ。
「おめでとうございます。何よりではありませんか。失礼ながら、もっと上り調子の言葉が似合いそうですがね」
「しかし私は今自分が何をしてるのか、よく判らないのです」
違う。これは酒の所為ではない。はっきり月明に照らし出された男の顔は、全く赤くなっていない。否、殆ど蒼白に近かった。これは完全な素面だ。
「今から思うと……」
男は勝手に喋り続け闇の空を見上げた。
「あんな馬鹿な事をすべきじゃなかった。子供を捨てて奥さんに渡したまま、私独り家を飛び出すなんて事をしなければ良かった。私はそうしたがために、自分で自分の一生を葬ってしまった……」
この言葉を聞いた以上、私は何も言えずに黙って立っている事しか出来なくなってしまった。中年の男は殆ど私の方を向いていない。直ぐ近くの叢で何か動物の鳴声がした。犬ではない。
「今、それなりに生活出来ている私が奥さんか子供にお金を送ったところで何になるでしょう。そんなもの、絶対に妻も子も受け取ってはくれません。そりゃそうでしょう。一番つらい時に助けてくれず、却って逃げ出しておいて十年もしてから一体何の面下げて手紙書けます? 会えます? そんな事したって多分封筒を開けもせずに捨てられるだけの事ですよ。仮令中にお金が入っていると想像が付いたとしても、です」
私はこの男の表情、それも刻々変わる次元の表情ではなく、もう永く染み付いた人相という意味での表情と男の話す内容とがちゃんと一致してきた。そうか、そういう事なのか。
「今夜、この広間に集まって汽車待ちしている人達の中にも、こんな時刻ですが仲の良い親子連れが居ましてね、それを見ていると、『ああ、親の責任をちゃんと果たしているなあ』と当方の胸が苦しくなります。妻と別れた時は、自分としてちゃんとした理由を感じていました。こんな奥さんとは最早これ以上一緒にやっていく事は出来ないと。そして子供も奥さんに任せておけばちゃんと育つだろうし、小さな子供だったら母親と一緒に居る方が良いのだろうと思って妻に残したんです。でもその後、私は何をしても妻と子供の事を忘れる事が出来ませんでした。自分の身体の一部を妻と子供の所に置いたままで今まで生きてきた感じがするのです。正に理屈じゃありません。実感なんです」
私は怖くなってきた。此処にも私そのままの人間が居る。そしてそのもう一人の私が透き通る様に青白い月光の下で泣く事もせず、いや出来ず、見知らぬ若い旅人に告白している。
「本当に善意でしたいと思う事すら、最早する事が出来ない。だって相手に拒否される。一層憎まれる。そんな立場になったら、本当にもうそこで御終いです」
私は知らぬ間に男の顔を凝視するのをやめていた。闇で何も見えない地面に目を落とし、本当にどうする事も出来なくなった後悔というものを眼前に見てそれに怯えていた。気が付くと自分の両の拳も握り締めていた。
可哀想だがその通りだ。この男の言う通りだ。そうなるまでに人は自制しなければならない。
「それでも、人に頼んで妻の家の様子を調べてもらったんですよ」
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