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最終話

 主人公の青年が、深夜最終の米子行きに乗らなかったその理由。これが、私がこの小説を書こうとして最初に浮かんで来た心象でした。これから人生を踏み出す主人公の青年を、最も厳密に代表する心術はこれに違いないと思ったからです。私は、こういう心情を、心を、『豊か』だと看做す者です。それは極端な程純粋でまた謙遜で、人間らしくそして温かであるからです。

 駅蕎麦屋の女将に、主人公のこの青年の心は解ったのでしょうか。それは作者である私にも判りません。けれどもそうであるか否かに関係無く、主人公の青年は人生の尊い時間を過ごす事が出来たのです。この青年は尊いものに導かれていると、私は信じます。

 勝手に涙が頬を伝って流れた。しかし私は泣きながらも笑顔であったと思う。私は切なさと悲しさが感謝を最大にする事に、いや真実の感謝とは必ず切なさと悲しさを土台にしている事に、この時初めて思い至ったのだ。

 軈(やが)てまた駅前旅館の人間がぞろぞろと出てきた。

「ぷしゅーーーーっ」

 闇の中、機関車の排気の音がした。かちゃんかちゃんと金属が触れ合う音、そして緩やかに線路の継目を渡る車輪の音がしたかと思うと、ぼんやりと灯火が浮かび上がった。日付が変わる直前の広島駅を出た上り快速夜行ちどりが闇の芸備線を抜け、深夜二時半の備後落合駅に到着する。轟音と重厚な線路の響きが鳴り渡ると、客車三両の身軽な編成がホームに停車した。深夜のプラットフォーム上は俄かに活気付いた。周辺の家々への配慮だろうか駅の拡声器での案内が無い。駅員がプラットフォーム上を歩きながら声を落として、

「米子行き~、快速夜行ちどり~」

と案内して歩いている。列車から結構な数の客が出てきて駅蕎麦に向かうので駅蕎麦のおばさんは忙しい。成程上下でこれだけの客が利用するのであればこの時間帯に店を開けているのも頷ける。食べ終わった者から順にそそくさと車内に戻っていく。この駅からこの快速に乗る乗客は座席にありつけないだろう。駅蕎麦組が一旦プラットフォームに降りた後に急いで車内に入るが、一旦客車から出る乗客はちゃんと自分の席に荷物を置いてから出てくる様子だ。窓の外から見ているとどうもそうらしい。前後の車輛と中央半室の三等は満員だ。立ち客が居ないのは中央の車輛半室の二等車だけだった。先刻の若者が老母を支えて二等の座席に座らせるのを私は見ていた。矢張二人とも嬉しそうにしていた。

 車掌が出てきて駅員と何か言葉を交わしている。しかし二人とも笑顔なのでそう深刻な話でもない様子だ。変事些かも無し、世間話をしているのではないか。そんな感じだった。深夜の駅とは思えない賑わいだった。静かで、そして明るい。若しこれが真冬でも同じ光景が展開された事だろう。何も変わらなかっただろう。私はそんな事を思った。

 私もこの夜行ちどりで松江に向かう心算(つもり)だった。しかし私はその夜行ちどりに乗る事が出来なかった。その事を私は告白しなければならない。結論から言おう。私は此処(ここ)で出逢った人達と同じ列車に乗って旅をする資格がまだ自分に無いと思ったのだ。私は此処(ここ)で出会った人達と私とは何も違わないと思った。しかし正しくは一つだけ違いがあると感じたのだ。それは彼らはもうそれを越してきた人間であり、私はまだこれからその未来を生きる人間であるという事だ。私はそこに私の敬意を表さなければならなかった、表したかったのである。そして私に出来るその敬意を払う方法というのが、他人には笑われるかも知れないが同じ汽車に乗らずに彼らを見送るという事だった。それしか私には思い付かなかったし、それが一番私の気持ちを表すのに相応しい形だと思ったのである。それは今も変わらない。それで良かったのだ。それ以上の敬意の込め方を私は今でも思い付かない。

 小型の機関車が、おまけに深夜なので、

「ぴょっっ」

という遠慮深い短い汽笛を鳴らして備後落合の駅を出ていく。短い三輌編成の快速夜行ちどりは中国山脈の残りの山道を辿るべく木次(きすき)の隘路に潜って行った。私は駅蕎麦のおばさんと一緒にそれを見送った。

 此処(ここ)で出逢ったのはどういう人達だったのだろう。簡単だ。その時代の社会に生きる普通の人達だったのだ。私が恐ろし気に、不気味に予想した『社会』に現実に生きているのが彼等なのか。皆、私と何の違いも無い人達ではないか。私より立派な一生を送ってきた人も居た。しかしそれでも私と一緒なのだ。私ならそんな事はしないだろう、そう思える人も居た。しかしそれでも私と一緒なのだ。それは私がその人の想うところを聞いて、そして嬉しく、哀しく、つらく、そして祝福したい気持ちになるという事は、即ちもう一人の私が其処(そこ)にそうして生きているという事ではないか。気持ちが通じるというのは全く同じ人間だという訳ではない。しかしかといって、まるで違う人間だという訳でもない。それは同じ人間ではないが、尺度物差が同じだったという事だ。そして私はそれだけで今夜此処(ここ)で出逢った人達に心から親しみを感じた。感じる事が出来た。そして彼らに心から親しみをもつ事が出来たのなら、私は社会に出て働く事になっても決して本当の意味での孤独に陥る事はないと信じる事が出来たのである。

「あんた、乗らなくても良かったの?」

 この駅蕎麦のおばさんは毎晩こうして夜行列車を見送っているのだなと、私はそんな当たり前の事にその時になって気が付いた。

「いいんです。私は全然急ぐ旅じゃない」

 おばさんは何故か少し眉を顰めて、

「ね、聞かせてよ。あんた、急ぐ旅じゃないにしろ、どうして乗らなかったんだい?」

と、如何にも小声で私に尋ねた。

 私はにっと笑っておばさんを見た。おばさんは最初は普通の顔だったが次第にとても嬉しそうな顔になっていき、

「まあ、何でもいいわ。あんたがそれで良(い)いのなら。もう一杯食べる? お代はいいよ」

と言った。

「そりゃいけません。おばさんの渡世は人に蕎麦を食べさせて稼ぐ事でしょう? それをお代無しという訳にはいきません」

「あたしの渡世だから、あたしがそれを決められるんだよ。それに時間賃金の雇われだしね。そう思わないかい?」

 私は抵抗するのをやめて大人しく熱い月見蕎麦を馳走になった。

「美味しいかい?」

「そりゃ勿論」

 三杯目の蕎麦も私は普通に美味しく食べた。途中一度喉に閊(つか)えて咳をすると、おばさんはかなり汚れた硝子のコップに水を汲んで出してくれた。私は『有難う』と言う事が出来なかったので右手を軽く上げて感謝の意を表した。何故かおばさんは嬉しそうに笑っていた。何が嬉しかったのだろうか。それは今でも判らない。

 深夜三時のこの駅のプラットフォーム上での駅蕎麦を私は生涯忘れる事は無いだろう。私は不思議な気分になっていた。まだ夜は長い、朝まで随分待たなければならないと思っていたが、考えてみれば木次(きすき)線の始発までもう一時間半しか無い。私は駅蕎麦のおばさんに何度も礼を言い、闇の中ホームの端に向かって歩いた。それには何の意味も無かった。ただ何故か、歩きたかったのだ。私が生きている証拠に。私がこの世界で自分が生きていってもいいのだと理解したしるしに。それを記念すべく。


 私の昔の話はここで終わる事にする。最初に言った様に駅前旅館はもう営業していない。建物が残っているだけである。私は旅館の前まで行ったが人が住んでいる気配が無い。壁も剥げているし廃屋然としている。私はその中に再び入ってみたいとは思わなかった。

「済みません、広島の新聞記者の者ですが、この地方の歴史を取材して廻っています。此処(ここ)は昔沢山のお客さんが列車待ちで利用した旅館ですよね? 差支えなければこの家屋の中を見せて頂けますか?」

 この建物から誰か一人でも人が出てきたら、私が一言そう口にすれば若しかしたらあの懐かしい光景が今私の眼前に蘇るかも知れない。しかし私はそうは言うまい。ただ黙って少しだけ頭を下げて挨拶し、通り過ぎるだろう。

 若しも今、活気に満ちていた、そして様々な人間の人生が何かの縁(えにし)で無秩序に交錯していたあの場所が、綿埃と暗闇と静寂の中誰も居なくなった姿で私の眼前に展開されたとしたら、私は如何(どう)したら良いのだろう。見るべきではない。そんなものは私に、私の一生に、何の関係も無い。あれは最早過ぎ去った遠い過去の事だ。それが存分に展開され、まるで手を伸ばせば直ぐにでも届き触れる事が出来そうな実感をもって存在して然るべきなのは、私の目の前ではなく私の胸の裡(うち)、私の心の中なのである。そこにこそ私の生きる限り大切に守るものとして存在し続けるべきなのであり、それ以外の場所に『在ってはならない』のだ。それ以外の場所に私が求めてはいけない。その事を今私は多分完全に理解している。私はそれだけ長く人生を生きてきたし、そういう年齢なのだ。だから虚しい事はしない。

 私のすべき事、努力しなければならない事は、今も彼(か)の時と変わらずに在る。あの時とは中身が変わっただけだ。私は私の遠い昔を大切にし、時々瞼に思い浮かべながら生きていけば良いのである。


(了)

 ブログは毎日更新しています。

https://gaho.hatenadiary.com/

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