その四
この娘さんとの対話、私はとても大切で意味の有る事だと思います。意味が有る、双方にとって、です。この娘さんがこの時主人公の青年と出逢った事に、私は祝福の気持ちを抑えられません。
この後この娘さん、燈子さんが苦しさを乗り越えて、堅実な一生を築いて行ってくれる事を心から願います。
「実際、一人旅なんですか? それもこんな時間の夜汽車で? それは良くないですよ」
私がそう言うと娘は、
「いえ、私は安全なんです。私は広島県警本部長の娘ですから」
と言った。成程それなら一応は安全だ。先刻の男二人にもその事を告げたのだろう。
「それにしても、相手が酔っぱらっていたら親の身分なんて関係無いでしょう。矢張危険です」
「若しも何かあったら、これで刺してやりましたよ」
娘は目立たない様にハンドバッグの中から千枚通しを取り出して見せた。私は吃驚した。
「でもそんな事したら、あなた自身が警察行きですよ」
「いえ、私が正当防衛を主張したら多分無罪になります。若い娘って色々得なんですよ。お分かりですか?」
中々強かな娘だ。娘は私の返事を待たずに言った。
「私、燈子っていいます」
「私は京助といいます。広島行きですかね? 米子行き?」
「広島行きを待っています」
娘は食事を終えると悠然と茶を飲み始めた。何とも落ち着いている。まるでこんな夜中の旅に慣れているかの様だった。私が黙っていると、
「私ね、婚約者が死んでしまったんです」
と突然身の上話を始めた。私は何と言って良いか判らなかったがとにもかくにも、
「それは残念です」
とだけ言った。ところが娘は、
「いえ、良かったんです。とても好都合でした」
と平然と言う。私が何故という顔をして娘を見ると娘は、
「親が無理矢理用意した縁談だったんです。そんなの、嫌に決まってます。もっと自分一人で色々世間を見てみたいですから」
と極めて率直な言を口にした。
「それに最低の男でしたよ。一見して徹底的に卑しい顔をしていました」
しかしここで私は気が付いた。この綺麗な娘は変な感じがする。まるで顔の筋肉だけで笑っている様な気がする。表情に感情が伴っていないのだ。それに幾ら親がその筋の大物でも矢張こんな時刻に旅をするなど普通の娘の考える事ではない。しかし私はそんな疑念を抱きながらも一応自分の身上話をした。相手が素性を明かした以上此方も些かは話さなければ不公平になると思ったからだ。すると娘は暫く黙って畳に視線を落としていたが、
「偉いですね。自分で自分の人生を決めて生きておられるんですね」
と呟く様に言った。
「何も偉くありません。誰だってそうしてると思いますよ」
娘は一層淋しそうな顔になった。しかしどういう訳か、そこに何となくずっと同じ表情が残っている。上手く言えないのだが何か表面の表情の下にもう一つの顔があって、その部分がずっと同じで一切変化しない。ここが私がこの娘に惹かれた点だった。何となくだが私は、この娘は何事か決意している事があるのではないかと感じた。その決意が普通に泣いたり笑ったりするのを禁じているのではあるまいか、そんな気がしたのである。
「まあ、親が無理矢理決めた許婚が死んでくれたのなら、そしておまけにその人が嫌な顔をしていたのなら、あなたにとってそれで良かったではありませんか。これからまだ未来があるのですから」
私の話を最後まで聞かずに娘はまたしても突然口を開いた。
「母は一方的で偉そうにしていた父の奴隷の様にして暮らし、苦労して死にました。私は父に復讐したいのです」
私は厳しい顔をしてこの燈子という娘を見詰めていた。そして出来ればこのままで何も喋りたくはなかった。喋れば何か良くない事を自分が言い出しそうな気がしたからである。こういう時は黙って聞いているだけが一番良い。
しかしこの時だ。私には或る一つの想像が浮かんだ。そしてその想像が現実のものであったとしても自分が動揺しないだけの心の準備を整えた。その次の瞬間、
「その許婚を殺したのは私です」
と燈子が言った。どうしてだろう。どうして私はこの娘が次にこう言い出す事を予感出来たのだろう。
「お酒に毒を入れました」
しかし私は動じなかった。
「それは、その人を殺せば燈子さんのお父さんが苦しむと思ったからですか?」
「それもあります。けれど一番の理由はその男が馬鹿で阿呆で卑しい人間だったからです。そんな人間は生きている価値がありません」
燈子は澱み無くそう答えた。いや言葉に詰まろうが滑らかに言おうがそんな事はどうでもいい。そんな事が重要なのではない。
「そうですか。でもそれは残念な事をされました。出来ればせずに済ませたかったですね」
「そうですね」
「若しもその男性が高潔であたたかく優しい男性であれば、幾らその男性が燈子さんのお父さんが決めた許婚であっても、燈子さんはそんな事はされなかったでしょう?」
私はこの時の燈子の悲しそうな顔を忘れる事が出来ない。この娘はもう知っているのだ。自分がそうした事に拠って苦しむのは寧ろ父よりも自分であるという事を。しかしまだこれで話は終わらない。重要な事が残っている。私は声を落として言った。
「燈子さん、このまま広島の家に帰ってからお父さんを殺すのは、出来ればやめて下さいね」
途端に燈子の顔色が変わった。怒った、というよりも真面目な、いや何か暗い影のさした気味の悪い顔になった。綺麗な分、余計に怖い。そして何も言わない。
私は手帳に自分の住所と姓名を書いて破り、それを燈子に差し出しながら続けた。燈子は腕を伸ばしてその紙片を受け取った。
「燈子さん、上手く言えませんが、燈子さんはその馬鹿で阿呆で卑しい許婚に毒を盛る時、これが出来なければその次のもっと大きな事も出来ない、そんな風に思ったんじゃありませんか? だから毒を盛った、その毒を盛る事を自分で制止できなかった、そうなんじゃありませんか? そうですよね?」
燈子は黙っていた。思った通りだ。父親を殺す決意を裏付ける為に、それが本気である事を自分にはっきりと示す為に、許婚への犯行を決行したのだ。謂うなれば彼女にとって婚約者殺しは退路を断つ行為で父親殺しは背水の陣なのだ。私は続け様に喋った。私は何を言って良いのか解らなかったが、何故だか燈子に言うべき言葉が勝手に出てくる。その事については絶対の自信があった。その時思いがけず燈子が言った。
「あなたは、何故そんな事まで分かるのですか?」
「私もそういう事をしようと思った事があるからですよ」
私はこの返事を燈子の言葉が全部終わるのを待たずに口にした。即座に言う必要があったからだ。即座に言わなければ、私が心の底から今本気で燈子に喋っていると何故だか燈子に信じてもらえない様な気がしたのだ。一呼吸置いた後で私は落ち着いて続けた。
「私は燈子さんが人殺しであっても、或いは他の何であっても、そんな事は何も気になりません。どうしてだと思います? 燈子さんが悲しそうだからですよ。けれど、こうして夜行列車の待合旅館で出逢っただけの私にそんな事を言うのであれば……」
燈子が遮った。
「出逢っただけじゃありません。京助さんは私を助けようとしてくれましたね」
この時の燈子の声は消え入りそうな声だった。まるで小さな子供が悪戯しているのを大人に注意された時の様な感じだった。私は直ぐに涙が湧いてきた。しかし私はここでも燈子の言葉を終いまで聞かずに喋り出した。だが今度は即座に答える必要を感じたからではない。純粋に私が自身を制止する事が出来ず、直ぐに喋りたかっただけである。
「行きずりの人間にまでそんな事を口にするというのは、燈子さんが苦しんでいるという証拠です。私は燈子さんが何であっても構いませんが、それよりも燈子さんがこの後で苦しむのは嫌なんです。それを今以上に増やす事になるのは嫌なんです。分かって下さいますね?」
「今以上に増やす事にはなりません。全く反対で、それをした先にこそ本当の私の人生が始まるんです」
私はわざと頷いて見せた。それは燈子の考えが正しいと認めたからではない。そんな事をした人間であれば、必ずそう反論するという事を此方がちゃんと予測していたという事を示す為である。そしてそれを燈子も理解した様子だった。
「しかし、そうでない事を燈子さんはもう知っているのではありませんか?」
「…………」
「若しも本当に、そうする事で自分の人生が拓けるというのであれば、その計画を実行中にこうして広島に戻る今、私の前で、自分が正しいと信じる事をする人間に相応しく、にっこりと笑えますか?」
燈子は黙って硬直した。そして次第に項垂れていった。
「そうです、それで良いのです。心から笑えるかどうかが、本当に自分が自分の正しいと思う事をしている時の、唯一の証拠だと思って下さい」
なおも動かない燈子に私は、
「燈子さん、あなたは綺麗だし、私と同じくらいの年齢の方です。私が言うのでは説得力が無いですが、まだまだこれから自分の一生を拓く事が出来ると思います」
と出来るだけ感情を込めずに言った。
「人を殺しても、ですか」
「人を殺しても、です」
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