その三
雑然とした沢山の人の中に身を置くのは、概してあまり良い事は無いと私は思っています。しかし、人との出逢いがこういう機会に在る事も疑う事の出来ない事実ですね。夜行列車の旅とは、正にそういうものではないかと私は思うのです。そしてそういう時に、他人に心開く事の出来る自分でありたいと思います。
「はーい。じゃあ空いてる所にー」
しかし空いている場所というのが無い。広い座敷には三々五々客が座り込んでいる。がやがやとうるさく賑やかだった。しかし私は何故か急に嬉しい気持ちになった。米子広島を目指して深夜の山間の駅に斯くも多くの旅人が集まっている。その事が何かしら『人間的』に思えたからだった。非情で人間の気持ちなどとは全く交渉の無い、関係の無い冷酷な秩序、そういうものとは正反対のものに見えたのだ。
もう先にこの旅館に入ったこれらの客が注文した夕餉の膳が次々と運ばれてきていた。私はやっと廊下に空いている場所を見出し、其処の板の間に外を背に胡坐に座った。
「ぴょーっっ」
という機関車の汽笛が間近に聞こえる。趣があって実に悪くない。
「此処、泊まる事も出来るんですよね」
隣の客に膳を運んできた仲居に私がそう問うと仲居は笑いながら、
「そりゃそうですよ。此処は旅館なんですからね」
と答えた。
「今夜は寝泊り出来ますか?」
「でもお客さん、夜行で米子に行くんでしょう?」
「眠たくなったら、もう寝てしまうかも知れない……」
仲居は笑顔で言った。
「今時良い御身分ですねえ。見たところまだお若いのに。何のお仕事ですかあ?」
私は気分が良かったので、
「何、一寸ものを書くものでね」
などと嘘を言ってやろうかとも思ったが、冷静になってやめておいた。
「で、空いてます?」
「済みませんが満員です」
「でもこの宴会客が夜行で出て行った後、この広間の場所が空くんじゃありませんか?」
別に私は泊まる気など無かった。しかし何故か食い下がりたい気がしただけだった。
「空きますけど、此処は直ぐにまた朝の客の準備に入らないといけないんです。だからこの部屋には寝てもらえません。寝泊りは二階ですが、もう満員です」
「そうですか。ではまた今度」
「お客さん、多分うち、泊まり客は年中満員ですよ。最早御馴染みさんが毎晩みたいにありますからね」
「ご繁盛ですね。じゃあ、夜行にしますよ。これからもね」
私は宿泊を断られたが何だか元気な気持ちが湧いてきた。仲居の表情も受け答えも良かったからかも知れない。
広間の宴会を眺めているうちに私は子供の頃の事を思い出した。それは母の姉、私の伯母の事だった。母の父親、私のお爺さんが亡くなった時にも田舎のその家でこんな風に広間で宴席があった。田舎では葬儀は村の人達に対して義理を果たす場面でもあったので酒や料理を多く出した。私の眼前に展開する光景はその時のものにとても似ていた。
「姉さん、本当に今まで御苦労様でした」
母が伯母にそう言うと数年前に自分の母も見送っていた伯母が、
「一生、人の世話ばっかり」
と、しかし笑いながら言った。たったそれだけの会話がどうしても私には忘れられなかった。後で子供だった私は母に尋ねた。
「ねえお母ちゃん、おばちゃんはずっと人の世話ばっかりしてきたの?」
母は申し訳無さそうな顔をして答えた。
「そうよ。姉さんがお母ちゃんのお父さんとお母さんのお世話をしてくれてたの。その御陰で、お母ちゃんはあんたらやお父ちゃんと一緒に暮らす事が出来たのよ」
私は母の言う意味がまだよく分からない程の子供だったが、母が本心から伯母に対して申し訳無いという気持ちをもっている事だけはよく分かった。だから私は、
「じゃあどうしてお母ちゃんは、お爺ちゃんやお婆ちゃんの御世話をしなかったの?」
と母に問う事を遠慮した。問うてはいけない気がしたからである。
そんな昔の事を想起して私がまた何かしら重い気分になりかけた時、私にも膳が運ばれてきた。
食べようかと箸に手を付けたその時、私の直ぐ横に座っている若い男二人の会話が耳に入ってきた。若者二人はうるさい宴席を避ける様に私と同じ様に廊下に座り込んで酒を飲んでいた。
「どうする? 御前……」
「うーん……」
「何しろ普通に考えたら、間違い無く御前、馘首だからなあ」
「……、そうだな……」
「御前、営業のクセして御客をぶん殴るというのは凄いぞ。一寸あまり聞かんな。今まで耳にした事が無い」
口数の少ない方の男が両目を閉じ両腕を組んでいる。
「それに、相手方に謝らんというのも大したもんだ。相手に骨折や出血がなかったとはいえ御前、それはまずいだろう?」
「うん、まずいなあ。何と謂うのか、こう、社会常識ってものがある。それに社長にも迷惑かけるしな。やっぱり辞表しか無いな、これは」
相手の男は言った。
「けどなあ、御前、本心でなくても頭下げたら良いんではないか? こんな事やってたら、何処でも勤まらんぞ」
「そうだな」
その短い返事の後お客さんをぶん殴ったらしい若い男は暫く腕を組んで黙っていたが、そのうちに滔々と喋り出した。
「いやな、今御前に色々言われながら思っていたんだが、これは仕方が無いよ。こんな事してまで会社に残ろうと思う方がおかしいんだ。そんな事を我慢してまで、会社に勤めていようと思う方が間違いなんだよ」
私は少し身を捩ってこの若者二人の方に向いた。無論正面から相対しない様にして。若い男は続けた。
「慥かに被害を拡大しない為には謝るのが一番だろう。けど、それを続けた先には何があるのかって事なんだ。いいか? あの客は、俺自身ではなく俺の親まで馬鹿にした。そんな事を黙って見過ごさなければならない、そうしないと維持していく事が出来ない立場って何だ? そんなものは、この先俺にどんな事を強いるか判ったもんじゃない」
相手は黙って聞いていた。
「俺が悩んで困っているのはな、この俺の考えと行動の結果を俺の親が聞いたらどんな反応を見せるかって事だ。それが何とも重い。それを思うと、俺が自分の考えを通すのが良い事かどうか判らなくなる。けれど俺がどうしても嫌だって思うんなら、これで多分正解なんだ。俺だって我慢出来る事はある。我慢する事が立派だって思える事もある。でもこれは違うんだ」
相手の男は暫く難しい顔をしていたが、そのうち表情を変えて言った。
「そうだな。結局そういう事なんだと俺も思う。じゃあ会社に戻ったら、俺からも社長に言ってやろう」
「有難う、済まんな」
「恐らく馘首は免れんだろうが、あの社長なら別の職場を紹介してくれるかも知れん。人情に厚いところあるしな」
「済まん」
若い男二人の会話はそういうものだった。私は私が会社に勤めて二、三年後の自分自身を見る様な気がした。私は終始黙って聴いていただけだが、私もその私より少し上くらいの若い男を励ましたいと思った。しかし何をする事も出来ずまた何かを言う訳にもいかない。私は盗み聞きをしているのであるから。私は心の中で掌を合わせて、
「頑張って下さい」
と念じた。軈て二人は早々に膳を平らげ、さも気軽そうに立ち上がって行ってしまった。
すると今度はその奥の若い娘と目が合った。若者二人が居なくなったのでその向こうに娘が座っているのが見えたのだ。しかしこれは良くない。抑々(そもそも)どうしてこんな山間の旅館の、それも宴会場みたいな広間に若い娘が一人で座って普通に夕食を食べているのか。一人ではないのだろうか。しかし膳は一人分であり誰かと話している様子も無い。綺麗な娘だった。漸く三等の汽車も婦人が一人で乗る事が出来る様になってきたとはいえ、それは昼間の汽車の話だ。つい数年前まで汽車の三等の客室ではやくざや性質の悪い荒くれ男が他の客から恐喝していた様な時代だった。危険極まりない。此処に居るという事は夜行の汽車待ち以外に考えられないが、どうして……。そのうちに言わん事ではない、中年の男二人がこの娘に絡み始めた。
「姉ちゃん、勇気があるな。一人かい?」
「こんな場所に一人とは、誰か良い男でも探してるのか?」
私は立ち上がり、この品の無い中年男達と広間でひと騒ぎやらかす覚悟で娘に近付いた。しかし娘が何やら小声で男二人に囁くと、男二人は顔を見合わせ少し離れた場所に陣取って大人しく飲み始めた。私は娘に近付いたけれど私を俟たずして事態が解決してしまったので行き場を失った。詮方無く素直に自分の席に戻ろうとしたが娘の方が私を呼び留めた。
「此処で私と一緒に食べませんか?」
そして実に麗しくにっこりと笑った。私は不思議な感じがしたが、黙ったまま自分の膳を娘の前に運び差し向かいで食べ始めた。娘は、
「私を助けようとして下さったんですね。有難うございます」
と優しい声で言った。
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