第099話:関門を越えて、黄金色の夕凪とレモン
深夜の下関で折り返し、関門の潮流を背にした『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』は、山陽本線へと針路を取っていた。
荒々しい日本海の岩礁と断崖の世界から、穏やかな内海――瀬戸内海沿岸へと風景は一変した。
昼下がりの陽光を浴びて、海面は鏡のように凪いでいた。
波打ち際の小波すら立たない、瀬戸内特有の『夕凪』。
海原には大小無数の緑の島々が浮かび、白い航跡を残して進むフェリーや小型漁船が、のどかな絵画のような情景を織りなしている。
広島県の忠海から尾道へと向かう海岸線。
サロンカーのバーカウンターに、ミズカゼが涼やかなクリスタルグラスを運んできた。
グラスの中には、淡い黄色のソルベと、クラッシュアイスのように輝くレモンのグラニテ。
ミントの葉が一筋添えられ、部屋中に飛び散るような鮮烈な柑橘の清涼感が満ちる。
「瀬戸内海からの、黄金の風でございます」
「……レモンか」
「第三章の旅人――東京で燃え尽き、すべてを投げ出して瀬戸内へやってきた佐倉唯さんが、忠海の元船大工・辰造さんとともに届けてくださった、採れたての無農薬大長レモンのデザートです」
宮内は銀のスプーンでソルベを口に含んだ。
キュッと心地よく頬の筋肉が引き締まる、突き抜けるような天然の酸味。
しかし、その酸味の奥から、太陽の光を浴びて完熟したレモンならではの、驚くほどまろやかで芳醇な甘みが広がってくる。
後味に残る、微かなレモンピールのほろ苦さが、旅の心地よい疲労をスッと消し去っていく。
グラスの敷紙には、丸みを帯びた女性の筆跡で、短い手紙が添えられていた。
『――宮内様へ。
あなたがかつて、呉線に観光列車を走らせようと奔走してくださったおかげで、私は『エトセトラ』に出会うことができました。
立ち止まってもいい。寄り道をしてもいい。
その言葉に救われて、私は今、この瀬戸内の波止場で、自分の手で新しい人生の舵を握り直しています。
あなたの敷いてくれたレールは、私にとっての、命の防波堤でした。
心からの感謝を込めて。 佐倉 唯』
忠海の波止場を通過する瑞風の車窓。
波止場の突堤の上に、エプロン姿の佐倉唯と、麦わら帽子の老船大工・辰造が並んで立っていた。
二人は、瑞風に向けて両手をちぎれんばかりに振っている。
そして、その傍ら――。
レトロモダンな真鍮の飾りボタンがついた黒と金のドレスをまとい、優美な帽子をかぶった鉄娘『エトセトラ』が、黄金色の海を背に、カクテルグラスを掲げて優雅に微笑んでいた。
「……唯さん。辰造さん……」
宮内はグラスを手にしたまま、窓辺に歩み寄った。
「命の、防波堤……」
かつて呉線の観光振興に携わった時、社内からは「そんなローカル線に投資して何の利益があるのか」と激しい反対の声が上がった。
それでも宮内は引かなかった。
『瀬戸内のあの夕凪の海には、傷ついた人の心を癒やす力がある。損得じゃない、鉄道が果たすべき本当の役割がそこにあるんだ』と、役員会で机を叩いて訴えた。
あの時の自分の選択は、間違っていなかった。
こうして一人の若い女性が、絶望の淵から這い上がり、自分の足で前を向いて生きている。
「ミズカゼさん……。俺は、幸せ者だな」
宮内はレモンのソルベを最後の一匙まで味わい、目を細めた。
「こんなにもたくさんの人生が、あのレールの上で繋がっていたなんて……。俺が生きてきた半世紀は、決して無駄じゃなかったんだ」
「はい。そして、その奇跡は山陽だけでは終わりません」
ミズカゼは微笑み、サロンの奥のテーブルを指差した。
「北陸から、紀州から、能登から……あなたが愛した西日本のすべての地から、届いておりますよ」
瑞風は、黄金色に輝く瀬戸内海を抜け、さらなる祝福の嵐の中へと進んでいった。




