第098話:長州の白壁、百五十年の志の書
山陰本線の夜を駆けた『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』は、本州の最西端、長州・山口県へと滑り込んでいた。
日本海の黒々とした波間に、漁火がポツポツと星のように瞬いている。
東萩駅の手前、車窓の向こうには、街灯に照らされた白壁となまこ壁の城下町が広がっていた。
サロンカーのローテーブルの上に、一冊の真新しい単行本が置かれていた。
重厚な布クロスの装丁。題字には金箔押しで、こう刻まれている。
――『海を渡る風の船』 中原 蓮 著
「……小説、ですか」
宮内が手を伸ばし、本を手に取った。
「第八章の旅人――中原蓮さんが書き上げた、処女作でございます」
ミズカゼが、萩焼の素朴な湯呑みに熱いほうじ茶を注ぎながら言った。
「彼は都内の書店員で、落選続きで筆を折り、原稿用紙を下関の海に投げ捨てようとしていました。けれど、観光列車『○○のはなし』に導かれ、幕末の足軽であり船大工だった曾祖父の生きた足跡に触れ、この小説を書き上げました。……出版されたばかりの第一刷が、今朝、萩の駅から瑞風へと届けられたのです」
宮内は、吸い込まれるように頁をめくった。
そこには、達筆で力強い文字が躍っていた。
『――歴史とは、教科書に名を残した英雄たちだけの記録ではない。暗闇の入江で手のひらを血に染めながら船を直した足軽、雨の日に泥を耕し続けた農民、そして二条のレールを敷き、見知らぬ誰かの明日を運ぶために生涯を捧げた無数の名もなき人々。彼らの流した汗と祈りこそが、この国の真の背骨なのだ』
宮内の指先が、ガタガタと震えた。
本を持つ腕から力が抜けそうになり、胸を強く締め付けられるような激動が走った。
「……二条のレールを敷き、見知らぬ誰かの明日を運ぶために生涯を捧げた、無数の名もなき人々……」
宮内はその一節を、何度も、何度も声に出して読んだ。
「蓮さんは、曾祖父の足跡を辿る旅の中で、あなたのような鉄道マンたちの歴史にも想いを馳せたとおっしゃっていました」
ミズカゼが静かに寄り添う。
「雪の日も、台風の夜も、保線用のツルハシを振るい、信号機を守り、ダイヤグラムを繋いできた人々。……その無名の志士たちがいなければ、誰も旅に出ることはできなかった。蓮さんは、あなたのその生き様を、この物語に込めてくれたのです」
東萩駅のホームを低速で通過する瞬間、車窓の向こうの改札口に、大正ロマンの絣の着物に海松色の袴をまとった少女の姿があった。
矢絣のリボンを風になびかせた文学少女――鉄娘『はなし』だ。
はなしは、胸の前に抱えた革表紙の手帖から真鍮の万年筆を抜き取り、瑞風に向けて誇らしげに掲げて見せた。
その隣には、黒いコートを着た青年――中原蓮が立ち、深々と頭を下げていた。
「はなしさん……中原君……」
宮内は窓越しに手を振った。
添えられた萩焼の湯呑みから、熱いほうじ茶を一口啜る。
大道土の粗い手触り。使う人の愛を受け、時間をかけて七色に化けていくという萩焼の器。
「……俺は、ずっと恐れていたんだ」
宮内は本を胸に抱きしめ、呟いた。
「定年を迎え、自分がやってきた仕事はすべて過去の遺物になり、忘れ去られていくのだと。……だが、違った。俺たちが繋いできた鉄路の記憶は、こうして若い人たちの心の中に、言葉として、物語として、永遠に生き続けているんだな」
「ええ。あなたが撒いた志の種は、百年の後も決して枯れることはございません」
長門を抜け、列車は関門海峡へと向かってスピードを上げた。
日本海の荒波が、まるで長い旅路路を労う拍手のように、車窓の裾で白く砕け散っていった。




