第097話:白き因州和紙、神話の湖に沈む夕陽
山陰本線を西進する『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』は、白砂青松の鳥取砂丘の風を浴び、神話の国・島根へと足を踏み入れていた。
午後を回り、サロンカーのラウンジには、柔らかな午後の陽光が差し込んでいる。
宮内の目の前、ラウンジの中央に置かれていたのは、息を呑むほど美しい二曲一双の衝立だった。
「……これは、因州和紙か」
宮内は立ち上がり、衝立の和紙にそっと手を触れた。
純白の楮と三椏を手漉きで漉き上げた、あたたかみのある耳付きの和紙。
そこに描かれていたのは、西日本の鉄路を力強く走る列車たちと、沿線の名もなき人々が笑顔で手を振る風景だった。
墨の濃淡と、弁柄の茜色だけで描かれた素朴な水彩画。だが、見る者の胸を締め付けるほどの愛と生命力が、紙の繊維の奥から立ち上っている。
「第四章の旅人――美大生の藤堂栞さんが、この旅のために漉き上げ、描き下ろしてくれた絵巻衝立でございます」
ミズカゼが静かに語る。
「彼女はかつて、絵を描く意味を見失い、自らのルーツに迷っていました。けれど、観光列車『あめつち』に導かれ、鳥取の青谷で祖父の手漉き和紙の技と『用の美』に出会い、再び筆を執ることができたのです」
衝立の端には、小さな落款とともに、栞の文字が添えられていた。
――『鉄路を守り、人を繋いでくださったあなたへ。この紙が、あなたの旅路を優しく包みますように』。
鳥取駅のホームを通過する際、車窓の向こうの改札口で、藍色の優美な着物に白地の羽織をまとった鉄娘『あめつち』が、砂丘の風を背に受けて深々と一礼する姿が見えた。
宮内は思わず胸元を押さえた。
自分がかつて「地方の伝統工芸を観光列車に結びつけたい」と願って種をまいた企画が、若い世代の手によって、これほどまでに気高く花開いている。
そして、夕刻。
列車は宍道湖の湖畔へと差し掛かった。
日本の夕陽百選に選ばれた、神話の湖の落日。
西の空が、茜色から燃えるような朱色、そして妖艶な紫へと移ろい、広大な湖面が鏡のように夕陽の光を反射して、黄金色のさざ波を立てている。
「宮内様、こちらをどうぞ」
ミズカゼが、氷水で冷やされた錫の徳利と猪口を差し出した。
「出雲からの贈り物。地酒『王祿』の純米生原酒でございます」
「王祿……。あの、幻と言われる銘酒か」
「第二章の旅人――東京の中間管理職・相沢雅人さんが、親友の修二さんとともに、宍道湖の畔から届けてくださいました。仕事に追われ、友との約束を忘れていた彼が、寝台特急『サンライズ』に乗ってこの湖の夕陽を見つめ、人生の絆を取り戻した証の酒です」
宮内は猪口を満たし、夕陽にかざした。
琥珀色の光が、錫の器の中で揺らめく。
一口含むと、どっしりとした米の旨味と、神話の湧き水のような清冽な酸味が喉を滑り落ちていった。
窓の外、宍道湖の湖畔に立つ嫁ヶ島の鳥居の向こう。
夕暮れの湖面の上に、ふわりと茜色のドレスをまとった少女の幻影が浮かび上がった。
夜明けと夕暮れの光を宿した、美しき鉄娘――『サンライズ』。
サンライズは、夕陽を背にして微笑み、そっと両手を胸の前で合わせ、瑞風へと祝福の祈りを捧げていた。
「……文乃」
宮内の口から、妻の名が零れ落ちた。
「覚えてるか……。結婚して五年目の夏、お前と二人で、出雲大社へ参拝したな。帰りに見た宍道湖の夕陽が、今日と同じように……こんなにも赤かった」
あの日、文乃は宮内の腕にすがりつき、夕陽を見つめながら言ったのだ。
『創さん。私ね、創さんの仕事が大好きよ。創さんが走らせる電車に乗って、たくさんの人が大好きな人に会いに行けるんだもの。……世界で一番、素敵なお仕事ね』
あの言葉を、自分はずっと忘れていた。
妻を仕事の犠牲にしたと自分を責め続け、妻が自らの仕事を誰よりも愛し、誇りに思ってくれていたという真実から、目を背けていたのだ。
「文乃は……最初から、分かってくれていたんだな」
宮内は猪口を両手で包み、夕陽に向かって掲げた。
宍道湖の落日が、老いた男の瞳に宿る涙を、温かな朱色に染め上げていた。




