第096話:余部の赤橋、母の出汁と香住の汐風
山陰本線を西へとひた走る『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』の静粛性は、宮内がかつて知っていたどんな気動車とも異なっていた。
車輪がレールを転がる心地よい低周波の振動と、遠くでかすかに唸るハイブリッドエンジンの重低音。
深夜の丹波路を抜け、福知山、和田山、豊岡と駆け抜けた列車が、城崎温泉を過ぎた頃、東の水平線が白々と明け始めた。
「宮内様、サロンカーへお越しいただけますでしょうか。最初の風が、あなたを待っております」
ミズカゼの導きで、宮内は五号車のラウンジカー『サロン・ドゥ・ルミエール』へと移動した。
木目調のバーカウンターと、大きな窓に向かって配されたソファ。
早朝の柔らかな黎明の光が、車内を淡い紫と黄金色のグラデーションで満たしている。
列車は減速し、日本海を一望する断崖の絶景へと差し掛かった。
眼下に広がるのは、藍色の海原と、白く泡立つ波頭。
そして、空中に架かる巨大な橋梁――余部橋梁。
かつて東洋一のトレッスル橋として名を馳せ、今は美しいコンクリート橋へと生まれ変わったその橋の上を、瑞風がまるで空中散歩のように滑らかに渡っていく。
「余部……。俺が若い頃、この橋の架け替え計画で何度も香住や鎧の町に通い詰めた場所だ」
宮内が懐かしそうに窓辺に歩み寄ると、ミズカゼが銀のトレイを恭しくテーブルの上に置いた。
トレイの上には、朝露のように透き通るクリスタルガラスの器。
「香住からの、最初の贈り物でございます」
「これは……?」
「第一章の旅人――大阪の洋食料理人・吉野涼太さんが、香住の伯母様の食堂で腕を振るい、今朝一番で瑞風へと届けてくださった逸品です」
器の中には、宝石のようにキラキラと輝く琥珀色のジュレが満たされていた。
その上に、紅く艶やかな香住ガニのほぐし身がたっぷりと盛られ、極細に切られた生姜と穂紫蘇が添えられている。
漂ってくるのは、磯の清涼な香りと、昆布と鰹、そして何よりも――どこか懐かしく胸を締め付けるような、深く優しい出汁の香り。
「涼太さんは、かつて味覚を失い、料理人を辞めようとしていました。けれど、特急『はまかぜ』に乗ってこの香住へ寄り道し、亡きお母様が遺した『誰かの命を想う出汁の味』を取り戻したのです。……どうぞ、召し上がってください」
宮内は銀のスプーンを取り、冷製ジュレとカニの身をすくい上げた。
口の中へと運ぶ。
「――っ!!」
体温でジュレがふわりと解けた瞬間、宮内の口いっぱいに、信じられないほどまろやかで奥深い旨味が広がった。
香住ガニの繊細で濃厚な甘み。
そして、それを優しく包み込む、透き通った出汁の温もり。
塩分は極めて控えめなのに、舌の奥からじわじわと湧き上がってくる滋味。
それはまるで、幼い頃に風邪を引いた時、母親が作ってくれた温かい吸い物のような、あるいは――かつて妻・文乃が、夜遅く仕事から帰ってきた宮内のために温め直してくれた、あの味噌汁の味のようだった。
「……美味い。なんて、温かい味なんだ……」
宮内の喉が詰まり、二口、三口とスプーンを動かした。
冷たいジュレのはずなのに、胃の腑に落ちた瞬間、カッカと熱い生命の炎が胸の奥へと広がっていく。
病で冷え切っていた老いた身体が、芯から解きほぐされていくようだった。
「宮内様、窓の外をごらんください」
ミズカゼの声に促され、宮内が余部橋梁の麓へと視線を落とした。
旧余部鉄橋の一部を保存した『空の駅』の展望台。
朝日に照らされたその展望台の上に、一人の少女が立っていた。
赤と銀のショートヘアに、快活な車掌風のジャケットを羽織ったボーイッシュな少女。
キハ189系特急の魂を宿す鉄娘――『はまかぜ』だ。
はまかぜは、ゆっくりと通過する瑞風を見上げると、満面の笑みを浮かべ、ビシッと胸元に右手を当てて力強い敬礼を送ってきた。
その隣には、白いコックコートを着た若い料理人――吉野涼太が立ち、深々と頭を下げていた。
二人の背後には、大漁旗を掲げた香住の漁師たちが手を振る姿があった。
「あの子が……はまかぜ……!」
宮内は思わず窓ガラスに両手をついた。
「俺が……俺たちが守り、新車を導入するために奔走した、あの播但線とはまかぜの……!」
「はい」
ミズカゼが微笑み、宮内の隣に立った。
「あなたがレールを守り、はまかぜを走らせてくれたからこそ、涼太さんは香住へ辿り着き、命の味を取り戻すことができました。そして今、涼太さんの作る出汁が、香住の人々を、そして旅立つあなたを温めているのです」
因果の糸が、一本に繋がった瞬間だった。
自分が机にかじりついて引いたダイヤグラムが、夜遅くまで電卓を叩いて確保した車両予算が――三十年の時を経て、一人の若者の命を救い、そして今、巡り巡って自分自身の命を救っている。
「俺の仕事は……無駄じゃなかったのか……」
宮内の皺だらけの頬を、一筋の熱い涙が伝い落ちた。
空の駅の展望台が、朝靄の彼方へと遠ざかっていく。
日本海の水平線から昇った太陽が、瑞風の深緑の車体を、そして老いた鉄道マンの濡れた頬を、眩い光で染め上げていた。




