↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
96/214

第096話:余部の赤橋、母の出汁と香住の汐風

山陰本線を西へとひた走る『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』の静粛性は、宮内がかつて知っていたどんな気動車とも異なっていた。

 車輪がレールを転がる心地よい低周波の振動と、遠くでかすかに唸るハイブリッドエンジンの重低音。

 深夜の丹波路を抜け、福知山、和田山、豊岡と駆け抜けた列車が、城崎温泉を過ぎた頃、東の水平線が白々と明け始めた。

 

「宮内様、サロンカーへお越しいただけますでしょうか。最初の風が、あなたを待っております」

 ミズカゼの導きで、宮内は五号車のラウンジカー『サロン・ドゥ・ルミエール』へと移動した。

 木目調のバーカウンターと、大きな窓に向かって配されたソファ。

 早朝の柔らかな黎明の光が、車内を淡い紫と黄金色のグラデーションで満たしている。

 

 列車は減速し、日本海を一望する断崖の絶景へと差し掛かった。

 眼下に広がるのは、藍色の海原と、白く泡立つ波頭。

 そして、空中に架かる巨大な橋梁――余部(あまるべ)橋梁。

 かつて東洋一のトレッスル橋として名を馳せ、今は美しいコンクリート橋へと生まれ変わったその橋の上を、瑞風がまるで空中散歩のように滑らかに渡っていく。

 

「余部……。俺が若い頃、この橋の架け替え計画で何度も香住や鎧の町に通い詰めた場所だ」

 宮内が懐かしそうに窓辺に歩み寄ると、ミズカゼが銀のトレイを恭しくテーブルの上に置いた。

 トレイの上には、朝露のように透き通るクリスタルガラスの器。

 

「香住からの、最初の贈り物でございます」

「これは……?」

「第一章の旅人――大阪の洋食料理人・吉野涼太さんが、香住の伯母様の食堂で腕を振るい、今朝一番で瑞風へと届けてくださった逸品です」

 

 器の中には、宝石のようにキラキラと輝く琥珀色のジュレが満たされていた。

 その上に、紅く艶やかな香住ガニのほぐし身がたっぷりと盛られ、極細に切られた生姜と穂紫蘇が添えられている。

 漂ってくるのは、磯の清涼な香りと、昆布と鰹、そして何よりも――どこか懐かしく胸を締め付けるような、深く優しい出汁の香り。

 

「涼太さんは、かつて味覚を失い、料理人を辞めようとしていました。けれど、特急『はまかぜ』に乗ってこの香住へ寄り道し、亡きお母様が遺した『誰かの命を想う出汁の味』を取り戻したのです。……どうぞ、召し上がってください」

 

 宮内は銀のスプーンを取り、冷製ジュレとカニの身をすくい上げた。

 口の中へと運ぶ。

 

「――っ!!」

 

 体温でジュレがふわりと解けた瞬間、宮内の口いっぱいに、信じられないほどまろやかで奥深い旨味が広がった。

 香住ガニの繊細で濃厚な甘み。

 そして、それを優しく包み込む、透き通った出汁の温もり。

 塩分は極めて控えめなのに、舌の奥からじわじわと湧き上がってくる滋味。

 それはまるで、幼い頃に風邪を引いた時、母親が作ってくれた温かい吸い物のような、あるいは――かつて妻・文乃が、夜遅く仕事から帰ってきた宮内のために温め直してくれた、あの味噌汁の味のようだった。

 

「……美味い。なんて、温かい味なんだ……」

 宮内の喉が詰まり、二口、三口とスプーンを動かした。

 冷たいジュレのはずなのに、胃の腑に落ちた瞬間、カッカと熱い生命の炎が胸の奥へと広がっていく。

 病で冷え切っていた老いた身体が、芯から解きほぐされていくようだった。

 

「宮内様、窓の外をごらんください」

 ミズカゼの声に促され、宮内が余部橋梁の麓へと視線を落とした。

 旧余部鉄橋の一部を保存した『空の駅』の展望台。

 

 朝日に照らされたその展望台の上に、一人の少女が立っていた。

 赤と銀のショートヘアに、快活な車掌風のジャケットを羽織ったボーイッシュな少女。

 キハ189系特急の魂を宿す鉄娘――『はまかぜ』だ。

 

 はまかぜは、ゆっくりと通過する瑞風を見上げると、満面の笑みを浮かべ、ビシッと胸元に右手を当てて力強い敬礼を送ってきた。

 その隣には、白いコックコートを着た若い料理人――吉野涼太が立ち、深々と頭を下げていた。

 二人の背後には、大漁旗を掲げた香住の漁師たちが手を振る姿があった。

 

「あの子が……はまかぜ……!」

 宮内は思わず窓ガラスに両手をついた。

「俺が……俺たちが守り、新車を導入するために奔走した、あの播但線とはまかぜの……!」

「はい」

 ミズカゼが微笑み、宮内の隣に立った。

「あなたがレールを守り、はまかぜを走らせてくれたからこそ、涼太さんは香住へ辿り着き、命の味を取り戻すことができました。そして今、涼太さんの作る出汁が、香住の人々を、そして旅立つあなたを温めているのです」

 

 因果の糸が、一本に繋がった瞬間だった。

 自分が机にかじりついて引いたダイヤグラムが、夜遅くまで電卓を叩いて確保した車両予算が――三十年の時を経て、一人の若者の命を救い、そして今、巡り巡って自分自身の命を救っている。

 

「俺の仕事は……無駄じゃなかったのか……」

 宮内の皺だらけの頬を、一筋の熱い涙が伝い落ちた。

 空の駅の展望台が、朝靄の彼方へと遠ざかっていく。

 日本海の水平線から昇った太陽が、瑞風の深緑の車体を、そして老いた鉄道マンの濡れた頬を、眩い光で染め上げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。