第095話:深緑の巨躯、走るホテルへの乗車
地下通路のエレベーターを上がり、地上ホームへと出ると、雨上がりの京都駅は異様な静寂に包まれていた。
終電が過ぎ去り、照明の大部分が落とされた長いプラットホーム――かつて寝台特急の出発を告げていた、歴史ある零番線。
その線路の上に、息を呑むような威容を誇る一編成の列車が、音もなく横たわっていた。
「……あ、ああっ……」
宮内は息を呑み、立ち尽くした。
そこに佇んでいたのは、鉄道マンとして幾度となく図面を見つめ、運行開始のニュースに胸を震わせた至高の列車――『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』。
深緑色の車体は、雨露を弾いて濡れ羽色のように艶やかに輝いている。
先頭車には、往年のボンネット型特急を彷彿とさせる流線型のフォルムと、丸みを帯びた五本の金色のルーバー(飾り格子)。
真鍮で鋳造された『TWILIGHT EXPRESS MIZUKAZE』の立体エンブレムが、ホームのわずかな街灯を拾って黄金の煌めきを放っていた。
「美しい……。なんて、神々しい姿だ……」
「お気に召していただけて光栄です」
ミズカゼが、宮内の半歩前を歩き、開け放たれた豪奢なエントランスドアへとエスコートした。
「この車体には、日本の鉄道が百五十年かけて培ってきた美学と情熱のすべてが込められております。さあ、中へどうぞ」
絨毯敷きのステップを一歩上がった瞬間、宮内は別世界へと足を踏み入れたような錯覚に囚われた。
車内を満たしていたのは、贅を尽くした天然木――吉野杉や栃の木、ナラの無垢材が放つ芳醇な木の香りと、最高級ウール絨毯の柔らかな踏み心地だった。
昭和初期のアール・デコ調を取り入れた優美なインテリア。
壁面には西日本の伝統工芸である組子細工や象嵌が施され、真鍮のブラケットライトが琥珀色の温かな間接照明を投げかけている。
「こちらが、宮内様のお部屋でございます」
ミズカゼが案内したのは、一両を贅沢に独占する最上級客室『ザ・スイート』だった。
寝室、リビング、そして車内とは思えないほど広々としたバスタブ付きのバスルーム。プライベートバルコニーの大きな窓からは、夜の闇に沈む京都の町並みが静かに広がっている。
宮内が革張りのソファに深く腰掛けると、ミズカゼは銀のポットを傾け、ノリタケの特注ボーンチャイナのカップへと琥珀色の紅茶を注いだ。
立ち上る湯気とともに、ダージリンのファーストフラッシュ特有の、マスカットのような清々しい香りが鼻腔をくすぐる。
「どうぞ、冷めないうちに。お身体を温めてください」
「……ありがとう、ミズカゼさん。こんな身に余るもてなし、俺のような老いぼれには勿体なさすぎる」
宮内は震える両手でカップを包み込み、一口啜った。
温かい液体が食道を滑り落ちていくと同時に、全身の筋肉の強張りが解け、胸の奥の痛みがふわりと和らいでいく。
「宮内様。この列車が目指すのは、単なる観光旅行ではございません」
ミズカゼは小脇に抱えていた革装丁の『瑞風録』をテーブルの上に静かに置いた。
表紙には、金文字で西日本の鉄道路線図が緻密に箔押しされている。
「山陰本線を西へ下り、日本海の荒波と城下町を巡り、下関から関門海峡を越えて山陽本線へ。そして瀬戸内海の夕凪を抜け、再びこの京都へと戻る――西日本をまるごと一周する『風の円環』。それが、今宵の私たちの旅路路でございます」
「西日本を、一周……」
「はい。あなたが現役の頃、幾度となく歩き、守り、時には住民たちとともに涙を流した、あの鉄路たちです。……あなたが退職されてからの数年間、各地の鉄路には、人生に迷い、絶望に打ちひしがれた九組の旅人たちが現れました」
ミズカゼが優雅にページをめくる。
そこには、達筆な万年筆の文字と、美しい水彩画で、旅人たちの姿が記録されていた。
「味覚を失った料理人。友との約束を忘れた商社マン。燃え尽きたマーケター。己のルーツを見失った美大生。すれ違った職人の父と子。結婚を前に素直になれなかった母と娘。情熱を失った野球部監督。筆を折ろうとした歴史小説家。そして、食材の命を忘れていた若き花板……」
ミズカゼの指先が、九つの物語を愛おしそうになぞる。
「彼らは皆、あなたの手元にあるその『風の切符』に導かれ、各地の鉄娘たちとともに寄り道をし、本当に帰るべき場所を見出しました。そして今――彼らは、あなたが遺した鉄路の沿線で、誇り高く、懸命に生きています」
「彼らが……?」
「ええ。彼らが今宵、あなたのために集まっております。瑞風が通り過ぎるすべての駅で、すべての橋梁で、彼らはあなたに感謝の祈りを届けるために待っているのです」
ドォォォォン……!
床下から、低く重厚なハイブリッド気動車の鼓動が響き始めた。
車輪が軋む微かなショックとともに、深緑の巨躯が静かに、滑るように京都駅のホームを離れ出した。
車窓の外、雨上がりの京都タワーが白く夜空に浮かび上がり、後方へと流れていく。
「さあ、出発の時です」
ミズカゼが、深緑のドレスの裾を翻して微笑んだ。
「あなたの人生のレールが、どれほど温かい光に満ちていたのか……その奇跡を、どうか最後まで見届けてくださいませ」
闇を裂く瑞風の汽笛が、夜の山陰本線へと高らかに響き渡った。
老いた鉄道マンの魂を乗せた、奇跡の円環の旅が、今まさに幕を開けた。




