第094話:京都駅地下通路、老いた男の悔恨
梅雨入り前の冷たい夜雨が、京都の古都を濡らしていた。
千年の都の表玄関たる京都駅。幾何学的な巨大なガラス天井を叩く雨音は、どこか遠い世界の幻聴のようにくぐもって聞こえる。
夜の十時を回り、家路を急ぐ通勤客や修学旅行の学生たちのざわめきが潮が引くように消え去った後、中央改札のさらに下層――昭和の面影を色濃く残す、薄暗い地下連絡通路の片隅。
冷たいタイルの壁に背を預け、プラスチックのベンチに深く腰を沈めた老人がいた。
宮内創、六十八歳。
薄汚れたトレンチコートの襟をかき抱き、骨張った胸元を右手で強く押さえつけている。
「……っ、ふぅ……っ」
胸の奥底で、心臓が軋むような鈍い痛みを訴えていた。
先週、大学病院の循環器内科で告げられた診断は、重度の心不全。
主治医の沈痛な面持ちが網膜に焼き付いている。『宮内さん、覚悟を決めて入院してください。これ以上、お一人で無理をなさっては、いつ倒れてもおかしくありません』。
だが、宮内は入院を拒み、処方されたニトログリセリンの錠剤だけをポケットに突っ込んで病院を飛び出した。
帰るべき場所など、どこにもなかったからだ。
郊外の古い団地には、埃をかぶった仏壇と、三十年前に三十四歳の若さで病死した妻・文乃の遺影があるだけだった。
子どもはいなかった。
「……俺の人生は、何だったんだろうな、文乃」
乾いた独白が、薄暗い地下道に虚しく吸い込まれていく。
宮内は半世紀近く、西日本の鉄道事業と地域振興にその身を捧げてきた。
国鉄の分割民営化の激動を最前線で駆け抜け、赤字ローカル線の存廃問題に胃を痛め、過疎化に喘ぐ山陰や山陽の寒村に何度も足を運んだ。
『線路を残してください! ここがなくなったら、村の年寄りは病院にも行けんのです!』
住民たちの悲痛な叫びを背負い、観光列車の企画を立ち上げ、特産品の掘り起こしに奔走し、深夜まで企画書を書き殴った。
だが――その猛烈な仕事の影で、妻は孤独に蝕まれていた。
文乃が腹の激痛を訴えて病院に運ばれた夜も、宮内は山陰の町で町おこしの寄り合い酒に付き合っていた。駆けつけた時には、文乃はすでに意識を失っており、二度と目を覚ますことはなかった。
『創さん、お仕事、頑張ってね。西日本の町の人たちを、笑顔にしてあげてね』
それが、妻が遺した最後の手紙だった。
その言葉を呪いのように抱え、宮内は仕事を辞めることもできず、ただひたすらに走り続けた。
そして定年を迎え、残されたのは、錆びついた心臓と、誰もいない冷え切った部屋だけだった。
「誰も幸せにできなかった……。お前の命すら救えず、町の人々の笑顔だって、所詮は一時のお祭りに過ぎなかった。俺が敷いてきた鉄路なんて……ただの、冷たい鉄の棒切れだったんだ」
宮内は胸の痛みに耐えかね、うずくまった。
もう、このまま目を閉じてしまいたかった。息が止まり、文乃のいる場所へ逝けるのなら、どんなに楽だろうか。
その時だった。
トレンチコートの内ポケットの奥で、何かがトクン、と熱を帯びた。
「……ん?」
宮内は震える指先をポケットに差し入れた。
薬の瓶を探す指先に触れたのは、小さな、しかし驚くほど厚みのある長方形の紙片だった。
引き出してみる。
それは――かつて宮内が青春時代に何万枚と扱った、懐かしい活版印刷用の『硬券切符』だった。
だが、その切符には行先も、運賃も、発駅も刻まれていなかった。
紙肌は純白の絹のように滑らかで、中央にだけ、深い藍色と黄金の光を帯びた文字が刻まれていた。
――『風の切符』
「風の……切符……? なんだこれは。こんな切符、印刷した覚えはないぞ……」
首を傾げた、その瞬間。
地下通路の蛍光灯が、フッと一斉に瞬き、あたりが深い静寂に包まれた。
コツン、コツン……。
誰もいないはずの通路の向こうから、シルクサテンのパンプスが敷石を鳴らす、凛とした足音が近づいてきた。
湿った地下道の空気が、一瞬にして澄み渡る。
漂ってきたのは、白檀とジャスミン、そして遠い朝露の森を思わせる、言葉を失うほど高貴な薫香。
宮内が顔を上げると、そこに立っていたのは、この世の者とは思えない気品を纏った一人の麗人だった。
深緑色――トワイライトグリーンの最高級ベルベットを基調とした、豪奢で優雅なイブニングドレス。
胸元と袖口には、真鍮と金糸で織り上げられたアール・デコ調の精緻なエンブレムが燦然と輝いている。
豊かな黒髪は夜会巻きに美しく結い上げられ、展望車のルーバーを模した繊細な金の髪飾りが揺れていた。
そして、その双眸。
夜明け前の静謐な日本海と、夕暮れの温かな瀬戸内海を同時に湛えたような、底知れぬ深みと慈愛を宿した瞳が、宮内を真っ直ぐに見つめていた。
小脇には、重厚な革装丁の大きな本――『瑞風録』を静かに抱えている。
「……お迎えにあがりました、宮内創様」
鈴を転がすような、しかし大地を揺るがす汽笛のように深く胸に響く美声。
麗人は、深緑の手袋を揃えて、優雅に一礼した。
「な……なたは、一体……? なぜ、俺の名を……」
「私は『ミズカゼ』。西日本のすべての鉄路と風土を見守り、旅人たちの魂の軌跡を記録する、全鉄娘の調停者でございます」
「ミズカゼ……? あの、トワイライトエクスプレスの……!?」
「ええ。あなたがその硬券を手にしたからこそ、私はここに顕現いたしました」
ミズカゼは歩み寄り、冷え切ったベンチに座る宮内の前に、そっと膝を折った。
「宮内様。あなたは先ほど、『俺が敷いてきた鉄路は冷たい鉄の棒切れだった』とおっしゃいましたね」
「……ああ。そうだ。俺は仕事にかまけて妻を死なせ、自分自身は何一つ遺せなかった。ただの敗残者だ」
「いいえ。決してそのようなことはございません」
ミズカゼの瞳に、優しい微光が灯った。
「あなたが半世紀にわたり、汗と涙を流して守り抜いてきたその鉄路の上に、どれほど美しい命の花が咲き乱れたか……。どれほど多くの迷える魂が救われ、生きる力を取り戻したか。あなたはまだ、ご存じないのです」
「俺の……鉄路の上に?」
「はい。美しい日本を、ホテルが走る。……今宵、瑞風は山陰から山陽を巡る『風の円環』へと旅立ちます。あなたが歩んできた人生のレールの上を、もう一度、私とともに走ってはいただけませんか?」
ミズカゼが、深緑の手袋をはめた右手を、優しく宮内へと差し伸べた。
その掌から放たれる温もりに、宮内の凍てついていた心臓が、トクンと力強く脈打った。
老いた鉄道マンは、吸い寄せられるようにその手を取った。
失われたはずの時間が、二条のレールの上で、静かに再び動き出そうとしていた。




