第093話:大地の恵み、深緑の麗人が招く円環
翌朝、トロッコ嵐山駅の木造ホーム。
朝靄を切り裂くように、武骨な赤褐色のディーゼル機関車が低く唸りを上げて停車していた。
ホームの改札口には、白衣の調理着を清潔に整え、包丁巻きをしっかりと背負った陽介と、麦わら帽子をちょこんとのせたさがのが並んで立っていた。
「親方と仲直りできて、ほんまによかったなぁ!」
さがのが、嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「あのお椀の味、きっと祇園のお客さんたちも腰抜かすほど喜んでくれるわ」
「ああ。すべては、さがのと勘助さんのおかげだ」
陽介は深々と一礼した。
「俺はもう、見た目だけの飾り包丁は使わない。食材の命にどこまでも寄り添って、土の誇りをお客さんに届ける料理人になるよ」
「うん! いつでも野菜送ったるからな! 勘助じいちゃんの黒豆も、うちの畑の賀茂茄子も、陽介さんに使ってもらえるのを待っとるで!」
その時だった。
陽介の胸ポケットが、じんわりと温かい光を放ち始めた。
取り出してみると、あの保津川の吊り橋で拾った『風の切符』だった。
厚みのある硬券の表面に、若草色と茜色の光の粒子がふわりと集まり、鮮やかな円形のスタンプが浮かび上がってくる。
大輪の黒豆の鞘と、初夏の青嵐に揺れる瑞々しいモミジの葉をあしらった、美しい印影。
――[山陰線・保津峡/下車前途無効・土の誇り 完了]
役目を終えた切符は、陽介の手のひらの中で優しく光を収めた。
「……旅の終わりやね」
さがのが、麦わら帽子に手を当てて微笑んだ。
「風の切符は、迷子になった旅人を、本当に帰るべき場所へ送り届ける切符。陽介さんの帰るべき場所は、あの祇園の厨房やったんやね」
「ああ。行ってくるよ、さがの!」
ポォォォーッ! と高い汽笛が保津峡の谷あいに響き渡る。
陽介は駆け出し、京都の町へと戻る列車のステップへと飛び乗った。
窓から大きく手を振る陽介の姿が、朝の光の中へと遠ざかっていく。
「気ぃつけてなー! 日本一の料理人になりぃやー!」
さがのは、腕に抱えた竹籠を揺らしながら、姿が見えなくなるまで大きく手を振り返した。
* * *
列車が走り去り、再び静寂が戻った保津峡。
エメラルドグリーンの激流を見下ろす、高い鉄橋の上。
ふわり、と一陣の神聖な風が吹き抜けた。
その風とともに、本来ならば人が立ち入れないはずの鉄橋の中央に、音もなく一人の女性が姿を現した。
深緑色の豪奢なイブニングドレス。
金糸で精緻なレリーフが施されたその装いは、まるで走る最高峰の迎賓館そのものの気品を漂わせている。
豊かな黒髪を優雅に夜会巻きに結い上げ、切れ長の涼やかな瞳には、西日本のすべての山河を見下ろすような深遠な慈愛が湛えられていた。
全鉄娘の調停者にして、西の鉄路の女王――**『ミズカゼ』**。
「……見事な旅でしたね、さがの」
鈴を転がすような、凛として艶やかな声が渓谷に響いた。
さがのはハッと息を呑み、慌てて麦わら帽子を脱いで深々と頭を下げた。
「ミズカゼ様……! 見守ってくださっていたのですか」
「ええ。播但の山を越えたはまかぜ、夜明けの湖を渡ったサンライズ、瀬戸の夕凪を愛でたエトセトラ、因幡の用の美を伝えたあめつち、黒潮の海を癒やしたくろしお、能登の花嫁のれん、越前の刃を研いだサンダーバード、長州の至誠を繋いだはなし……そして、大地の土の誇りを教えたあなた」
ミズカゼは、深緑の手袋をはめた指先で、虚空に浮かぶ一枚の巨大な黄金の地図をそっとなぞった。
そこには、西日本の鉄路に沿って、九つの美しい光の軌跡が眩いばかりに輝いていた。
「九つの風の切符が、迷える旅人たちの魂を救い、それぞれの志を甦らせました。……いま、すべての点と点が繋がり、ひとつの巨大な『円環』になろうとしています」
「円環……?」
さがのが目を丸くして見上げる。
ミズカゼは、保津川の青嵐を全身に受けながら、優雅に微笑んだ。
「終着駅は、終わりではありません。それは、新たな旅立ちの始発駅なのです。……さあ、参りましょう。九人の旅人たちと九人の鉄娘たちを乗せて、西日本の美しき山河を巡る、最後の祝祭の旅へ」
深緑の麗人が手を掲げると、天空から一筋の眩い光が降り注ぎ、山陰本線の鉄路を黄金色に染め上げていった。
物語はいよいよ、第一周遊の最高峰――大団円のフィナーレへと走り出すのだった。
(第九章 了/第一周遊最終章・第十章『ミズカゼと風の円環、終着駅のその先へ』へつづく)




