第092話:嵐山の夕照、師匠への一皿
京都・祇園。
白川のせせらぎと石畳の小路に、夕暮れの提灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。
打ち水がされた老舗料亭『千歳庵』の勝手口。
暖簾をくぐり、調理場へと足を踏み入れた陽介の手には、勘助の畑で分けてもらった泥付きの賀茂茄子と丹波黒豆、そして研ぎ澄まされた越前の柳刃包丁が握られていた。
磨き上げられたステンレスの調理台と、美しく拭き清められたまな板。
板場の奥、白衣に身を包んだ総料理長・厳造が、背中を向けたまま無言で大根の桂剥き(かつらむき)をしていた。
シャッ、シャッ……という研ぎ澄まされた包丁の音だけが、ピンと張り詰めた厨房に響いている。
「……親方」
陽介は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
厳造は手を止めず、振り返りもしない。
「何の用じゃ。敷居を跨ぐなと言うたはずや」
「親方に、食べていただきたいものがあります。一口だけで結構です。……俺の、今のすべてです」
包丁の音が止まった。
厳造はゆっくりと振り返り、冷徹な眼光で陽介を見据えた。
しかし、その視線はすぐに、陽介の泥で汚れた靴と、爪の間に黒土が染み込んだ両手、そしてまな板の上に置かれた泥付きの野菜へと落ちた。
「……作れ」
短く一言だけ告げると、厳造は腕を組み、調理場の隅へと退いた。
陽介は白衣をまとい、前掛けを締めた。
もう、迷いはなかった。
見せるための派手な手つきも、無駄なパフォーマンスも一切ない。
静かに昆布と鰹で出汁を引く。
研ぎ澄まされた越前の柳刃包丁が、賀茂茄子の皮に吸い付くように隠し包丁を入れる。
サッと揚げ、出汁に浸し、艶やかに炊き上げた黒豆と、萩の夏みかんの皮を添える。
白木のお椀に注がれた、黄金色の一番出汁。
陽介は両手でお椀を持ち、厳造の前に進み出た。
「どうぞ、召し上がってください」
厳造は無言でお椀の蓋を取った。
湯気とともに立ち上った香りを嗅いだ瞬間、厳造の白眉がわずかに震えた。
お椀を持ち上げ、吸い地を一口、静かに口に含む。
そして、箸で賀茂茄子を切り、口へと運んだ。
咀嚼する音すら聞こえない静寂。
厳造は目を閉じ、じっとその味と対話していた。
一分、二分……息が詰まるような沈黙が続く。
やがて、厳造が静かにお椀を置いた。
その厳格な老料理長の目尻から、一筋の涙が伝い、白衣の襟元へと落ちた。
「……行ったんやな、丹波へ」
厳造の声は、かすかに震えていた。
「はい。亀岡の朝霧を浴び、篠山の黒土に素手で触れてきました。……親方、俺は愚かでした。自分の包丁の腕を見せびらかすために、食材の命を押し潰し、土の誇りを踏みにじっていました」
陽介は床に膝をつき、両手をついた。
「料理人は、偉くない。偉いのは、何ヶ月もかけて命を育ててくれた土と、命を差し出してくれた食材たちだ……。俺は、その命を客の心へ届ける黒子でなければならなかったのに、自分が主役に躍り出ていました。本当に……申し訳ありませんでした!」
頭を擦り付ける陽介の頭上に、コツン、と重い革の包みが置かれた。
顔を上げると、そこにはコンペの日に厳造が取り上げた、陽介の十数本の包丁巻きがあった。
「……持っていけ」
厳造は背を向け、手ぬぐいで目元を拭った。
「お前のお椀には、風が吹いとったわ。保津川の青嵐と、丹波の黒い土の匂いが、ちゃんと客の胃袋に届く一椀やった。……飾り立てんでも、本物はちゃんと伝わる。それを知ったお前なら、もう大丈夫や」
「親方……!」
「明日からまた、朝一番に出汁を引け。お前のその新しい手ぇで、うちの客を唸らせてみぃ」
厳造の背中は、いつになく小さく、そしてどこまでも温かかった。
陽介は包丁巻きを胸に抱きしめ、何度も、何度も頭を下げた。
* * *
料亭を出た陽介は、吸い寄せられるように嵐山の渡月橋へと向かった。
夕暮れの桂川。
西の空が、燃えるような茜色と黄金色に染まり、水面を真っ赤に照らし出している。
橋の欄干に立ち、川風を胸いっぱいに吸い込む。
もう、川を見下ろして絶望していた昨日の自分はいなかった。
胸には、包丁の確かな重みと、土の温もりが脈打っていた。
「……ありがとう、さがの」
陽介は、遥か上流の保津峡の空へ向かって呟いた。
夕照の嵐山に、爽やかな青嵐が吹き抜け、若き料理人の新たな門出を祝福するように髪を撫でていった。




