第009話:終着駅のその先へ、新しいエプロン
翌日の午後。香住駅のホームには、心地よい初夏の日本海からの風が吹き抜けていた。
「涼太、これ持ってき。重たいけど、あんたの料理の役に立つはずや」
改札口まで見送りに来てくれた文子が、大きな段ボール箱を涼太に手渡した。
中には、天日でからからに干された香住ガニの殻がぎっしりと詰まった袋、肉厚な天然昆布、但馬の原木干し椎茸、そして香住の銘酒「香住鶴」の一升瓶が入っている。
「ありがとうございます、文子叔母さん。僕……大阪へ戻ったら、店を辞めます」
「ええんか? 大きな店の偉いシェフやったんやろ?」
「はい。自分の小さな店を開きます。カウンターだけの、気取らない洋食屋です。あの黄金の出汁を使ったスープと、食べた人がホッとして明日も頑張れるような料理を出す店を作ります」
「ふふっ、ええ顔になったわ」
文子は皺だらけの手で涼太の手を握り締めた。
「開店したら、必ず教えてな。汽車に乗って、一番に食べに行くさかい」
***
改札を抜けてホームへ上がると、上り列車の入線アナウンスが響いていた。
二条のレールが遠く西へと伸びている。
やがて、低く力強い汽笛とともに、茜色と銀のラインをまとった特急列車が滑り込んできた。
ドアが開き、ステップからピョンと飛び降りてきたのは、いつもの車掌帽を小粋に被った少女――はまかぜだった。
涼太の顔を見るなり、はまかぜはニッと白い歯を見せて笑った。
「よう、シェフ! 見違えるようないい面構えになったじゃないか!」
「はまかぜ……待っててくれたのか」
「当たり前さ。乗せた客を最後まで送り届けるのが、特急の誇りってもんよ。……で、見つかったかい? あんたの帰るべき場所」
「ああ」
涼太は胸に手を当て、深く頷いた。
「見つかったよ。俺の原点は、この海の香りと、母さんの教えてくれた黄金の出汁だった。もう、自分の舌を疑ったりしない」
涼太がポケットから、あの小さな厚紙を取り出した。
すると、不思議なことが起きた。
白紙だったはずの硬券切符の表面に、赤いインクでパチンと日付の入鋏痕が刻まれ、文字が浮かび上がっていた。
┌──────────────────┐
│ [風] 風 の 切 符 │
│ 発駅:姫路(播但線経由) │
│ 着駅:香住(再生の港) │
│ │
│ [下車前途無効・心の旅路 完了] │
└──────────────────┘
「使用済み、か」
「そうさ。もうあんたには、風の切符は必要ない。自分の足で、どこへだって進めるんだからね」
はまかぜが誇らしげに腕を組み、胸を張った。
「乗るかい? 大阪行きの『特急はまかぜ四号』。今度はちゃんと、正規の特急券を買ってもらうけどね!」
「もちろん。一番前の席を頼むよ。あんたの走りを、もう一度特等席で見たいからな」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
発車ベルが鳴り響く。
涼太は段ボール箱を抱えてデッキへ乗り込んだ。
プシューッと扉が閉まり、コモンレールエンジンの咆哮とともに、列車は再び山を越えるために力強く走り出した。
「開店したら、絶対に呼びなよ!」
車掌室の窓から、はまかぜが叫ぶ。
「あたしは線路の上しか走れないけど、風に乗って必ず食べに行くからさ!」
「ああ、約束するよ! 日本一うまい出汁の洋食を作って待ってる!」
***
それから、三ヶ月後の大阪。
下町の小さな商店街の路地裏に、一軒の小さな洋食屋が灯りを灯した。
店の名前は、『ビストロ・ヴェント(風)』。
カウンター七席だけのささやかな店先には、開店祝いの真っ白な胡蝶蘭と並んで、香住の干物屋から届いた木箱が置かれていた。
「いらっしゃいませ!」
パリッと糊の効いた白いエプロンを締めた涼太が、満面の笑みで客を迎える。
寸胴鍋からは、昆布とカニ殻、干し椎茸をじっくり煮出した、黄金色の澄んだ湯気が立ち上っていた。
客がスープを一口啜るたびに、「うわぁ……」「ほっとする味やなぁ」と、感嘆の声と笑顔がこぼれる。
レジカウンターの片隅。
小さなガラスの写真立ての中に、一枚の古い硬券が大切に飾られていた。
赤い鋏痕の刻まれた、『風の切符』。
店の引き戸が開くたびに、どこからともなく、爽やかな磯と山の風が吹き抜けていくのだった。
***
【幕間:京都駅・午前零時】
すべての営業列車が走り去り、静まり返った京都駅の暗いホーム。
月明かりの下、深緑の豪奢なドレスをまとった麗人――ミズカゼが、優雅な手つきで革製の手帳に万年筆を滑らせていた。
『第一周遊 第一章 播但・但馬路。
迷える料理人は己のルーツたる海を知り、風の切符は役目を終えた。
はまかぜの誇り高き走りに、心よりの敬意を』
パタン、と手帳を閉じると、彼女は夜空を見上げた。
東京から西へ向けて、銀河のようなレールの上をひた走る、一筋の光の筋。
「さて……次は、夜を越えて茜色の朝を運ぶ、あの娘の番かしらね」
ミズカゼの艶やかな唇が、微かな笑みを刻んだ。
西の鉄路に、また新たな風が吹き始めようとしていた。
(第一周遊 第一章『はまかぜと母の出汁』 了)
(第一周遊 第二章『サンライズと夜明けの湖』へつづく)




