第008話:香住の汐風と、母の黄金出汁
香住駅のホームに降り立つと、濃厚な磯の香りが鼻腔を満たした。
駅名標の横には、大きなカニの爪のモニュメントが鎮座している。
「着いたよ、涼太」
はまかぜが車掌帽のつばを直しながら言った。
「ここがあんたの母さんの生まれた町、香住だ。あたしの仕事はここまで。あとはあんた自身の足で行きな」
「……ありがとう、はまかぜ。あんたが乗せてくれなかったら、俺は今頃どうなってたか分からない」
「礼なら後にしな。さっさと行って、胸のつかえを下ろしておいで!」
背中をドンと押され、涼太は改札を抜けた。
海に向かってなだらかに下る一本道。
道の両側には、スルメやカレイの干物が潮風に揺れる水産加工場が並び、遠くの港には無数のイカ釣り漁船の集魚灯が白く輝いている。
涼太は母の遺品の中にあった古い手帳のメモ――「吉田水産、文子姉ちゃん、港の赤灯台の近く」という掠れた文字だけを頼りに歩いた。
十五分ほど歩いた港の突堤の手前。
風雨に晒されて色褪せた青いトタン屋根の建物があった。
軒先には「めし処 よしだ」と染め抜かれた、擦り切れた紺の暖簾が揺れている。
涼太は息を整え、引き戸に手をかけた。ガラガラと立て付けの悪い音が鳴る。
「ごめんください……」
店内には、使い込まれたカウンターと小さな小上がりが二つ。
奥の厨房から、エプロン姿の小柄な女性が顔を出した。白髪交じりの髪を後ろで束ねた、六十代後半の女性。
その目元の優しい下がり方が、息が止まるほど母に生き写しだった。
「はい、いらっしゃい……おや、お兄さん、見ない顔だねぇ。お昼かい?」
「あの……すみません。恵子の、息子の涼太です」
女性の手から、持っていた台拭きがぽとりと落ちた。
女性は目を丸くし、涼太の顔を食い入るように見つめ、やがてその目から大粒の涙をこぼした。
「……涼太、かい……? ほんまに、恵子の……?」
「はい。叔母さん、急に来てすみません。母が亡くなってから、ずっと連絡もせずに……」
「アホ言いないな! よう来た……よう、ここまで来てくれたなぁ……!」
文子は駆け寄ると、粉まみれの涼太の手を両手で強く握りしめた。骨張った、温かい職人の手だった。
「恵子から写真はずっと届いとったよ。『涼太が大阪で立派な料理人になった』って、死ぬ間際まで自慢しとったんや……。でも、あんた……えらい疲れた顔しとるな。何かあったんか?」
その一言で、涼太の喉が詰まった。
「……俺、料理の味が分からなくなって……店から逃げ出してきちゃったんです」
文子はそれ以上何も聞かなかった。ただ涼太の手をぽんぽんと叩くと、くるりと厨房へ背を向けた。
「ちょっと座って待っとき。今、あったかいもん作ったるさかいな」
***
厨房から、魚を煮る醤油とみりんの甘辛い匂いと、炭火がパチパチと爆ぜる音が漂ってきた。
やがて運ばれてきたのは、素朴な塗り盆に乗せられた二つの料理だった。
一つは、**「ハタハタの煮付け」**。
丸々と太った日本海のハタハタが二尾、照りのある煮汁をまとって湯気を立てている。針生姜が天盛りにされ、身は箸を入れる前からほろりと崩れそうなほど柔らかそうだ。
そしてもう一つが――大きな塗り椀に入った、**澄まし汁**だった。
蓋を開けた瞬間、涼太の全身の毛穴が開いた。
「……っ!」
鼻腔を突き抜けたのは、言葉を失うほど澄み切った、しかし途方もなく重厚な香りだった。
椀の中には、透き通るような黄金色の出汁がたたえられている。
浮身は、軽く炙ったカニの身と、細切りの白ネギ、そして一切れの木の芽だけ。
「うちの店で一番自慢の出汁や」
文子が向かいの丸椅子に腰掛け、穏やかに微笑んだ。
「飲んでみぃ。あんたのお母ちゃんが、一番好きやった味や」
涼太は両手で椀を持ち上げた。立ち上る湯気が顔を包み込む。
器に口をつけ、静かに一口啜った。
「…………っ」
舌の上に触れた瞬間、爆発的な旨味が口内いっぱいに広がった。
だが、それはフレンチの濃厚なフォン(出汁)のように舌に重く残るものではない。
最初に届くのは、日本海の水深数百メートルから引き揚げられた昆布の、深淵なミネラルの旨味。
次に訪れるのは、香住で水揚げされた紅ズワイガニの殻をじっくり香ばしく乾煎りした、甘く香ばしい甲殻類の芳香。
そして最後に、但馬の山奥で原木栽培された干し椎茸の、土の滋味と柔らかな甘みが、すべてを一つにまとめ上げて喉の奥へと滑り落ちていく。
――甘い。
砂糖の甘さではない。
海と山の命が、乾いた風と職人の手によって凝縮され、水の中で再び解き放たれた、命そのものの甘み。
「母さんの……味だ……」
震える声が漏れた。
「そうや」
文子が目を細めて頷く。
「香住の出汁はな、贅沢な削り節は使わんのや。浜の女衆が、売り物にならんカニの殻や、獲れすぎた小魚の干物を集めて、どうにかして家族に腹いっぱい美味いもん食わせようと工夫して生まれた出汁なんや」
文子は涼太の目を見つめた。
「恵子はな、大阪へ嫁ぐとき、このカニ殻の干したんと昆布をぎょうさん持っていった。『これさえあれば、どんなにしんどい日でも、あの子に笑顔でご飯作ってやれる』言うてな」
椀を持つ涼太の手が、激しく震えていた。
大粒の涙が、黄金色の出汁の表面に波紋を作った。
「俺は……俺は馬鹿だ……」
嗚咽が込み上げ、涙が止まらなかった。
「高い食材を使って、見た目だけ飾り立てて……誰のために作ってるのかも忘れて……! 母さんが教えてくれてたのに……料理は、食べる人を元気にしたいって祈りそのものだったのに……!」
「あんたは馬鹿やないよ」
文子が立ち上がり、泣き崩れる涼太の頭を、力強く抱きしめた。
「一生懸命走ってきたから、息が切れただけや。あんたの手を見たらわかる。毎日毎日、油に焼かれて、包丁で切って、それでもフライパン振り続けてきた立派な手ぇや。恵子が見たら、誇らしゅうて自慢しまくるわ」
涼太は子供のように泣きながら、ハタハタの身を口に運んだ。
上品で脂の乗った白身が舌の上でとろけ、生姜の香りが鼻腔を抜ける。
そして最後の一滴まで、黄金の出汁を飲み干した。
胸の奥底の冷え切っていた芯が、カッカと赤く燃え上がるように熱くなっていた。




