第007話:城崎の足湯、すれ違う旅人
時計の針を、少しだけ巻き戻そう。
特急はまかぜが余部橋梁を渡る少し前、城崎温泉駅で、対向列車との行き違いのために三十分ほどの停車時間があった時のことだ。
「ちょっと足湯でも浸かってきなよ。長旅で固まった足腰をほぐすにはちょうどいいさ」
はまかぜに促され、涼太は駅舎のすぐ右手にある外湯「さとの湯」の無料足湯へと向かった。
初夏の風が柳の並木を揺らし、下駄のカラコロという心地よい音が石畳に響いている。
涼太はズボンの裾を膝までまくり上げ、湯気立ち上る岩風呂に足を浸けた。
「……あっつ……ふぅぅぅ……」
思わず声が出る。少し塩気を含んだ城崎の温泉が、旅の疲れをじんじんと吸い出していくようだ。
ふと見ると、少し離れた岩の上に、大きなキャリーケースを足元に置いた若い女性が座っていた。
年の頃は二十代後半。都会的な仕立てのトレンチコートを着ているが、その顔には濃い影が落ちていた。
化粧は崩れ、スマートフォンを膝の上で握りしめたまま、微動だにせず湯面を見つめている。まるで、世界のすべての音を拒絶しているかのような、痛々しい横顔だった。
「……」
涼太は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
昨日の夜、大阪駅のホームに立っていた自分と、まったく同じ顔をしていたからだ。
涼太は生野駅で買った栃餅の包みに手を伸ばした。まだ二つ残っている。
少し迷ったが、涼太は立ち上がり、静かに女性の隣へと歩み寄った。
「あの……すみません」
女性がびくりと肩を震わせ、警戒するように顔を上げた。澄んだ、しかし光を失った瞳。
「突然ごめんなさい。怪しい者じゃないんです。これ、さっき生野の宿場町で買った栃餅なんですが……よかったら、一つどうですか? すごく素朴で、優しい味がするんです」
経木に包まれた茶色い餅を差し出すと、女性は戸惑ったように目を瞬かせた。
「え……? でも、見ず知らずの方から……」
「僕も昨日まで、大阪で料理人をやってたんですが……完全に燃え尽きて、逃げ出してきたところなんです」
涼太が苦笑いしながら言うと、女性の警戒心がわずかに解けたようだった。
「……料理人、さんですか」
「はい。味覚がおかしくなって、何もかも嫌になって……でも、この餅を食べたとき、少しだけ息ができるようになった気がしたんです。お腹が空いてるなら、ぜひ」
女性はおずおずと手を伸ばし、栃餅を受け取った。
そして、小さく一口かじる。
「……あ」
女性の喉がかすかに動いた。
「……苦いのに……すごく、あったかい味がします」
「栃の実のアクを抜くのに、一ヶ月以上かけるらしいですよ。人の手がかけた時間って、ちゃんと胃袋に届くみたいです」
「一ヶ月……」
女性はもう一口食べ、ふっとかすかに口元を緩めた。その瞳に、ほんのわずかだが光が戻っていた。
「私……東京のIT企業で働いてたんです。毎日深夜まで数字とパソコンに追われて……気がついたら、自分が誰のために生きてるのか分からなくなって。衝動的に西へ向かう新幹線に乗ってしまったんです。これからどこへ行けばいいのかも分からないのに……」
「僕の連れが言ってたんです」
涼太は駅のホームに停まる銀色の特急を見やりながら微笑んだ。
「『行き先は、あんたの心が知ってる』って。風の吹く方へ寄り道していけば、きっと本当に帰るべき場所が見つかりますよ」
「風の……吹く方へ……」
女性は大事そうに栃餅を両手で包み直すと、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。……私、瀬戸内の方へ行ってみようかな。海が見たい気がしてきました」
「いいですね。瀬戸内の海、きっと綺麗ですよ」
***
発車ベルが鳴り響き、涼太は駅の改札へと戻った。
ふと、跨線橋の影のあたりに、見慣れない人影があるのに気づいた。
はまかぜが誰かと話している。
相手は、深緑色のクラシカルなロングドレスに身を包んだ、この上なく気品のある長身の女性だった。顔立ちにはヨーロッパの貴族のような優雅さと、すべてを包み込むような慈愛が宿っている。
「……あれは?」
涼太が立ち止まると、緑のドレスの女性は涼太に気づき、優雅に帽子に手を当てて小さく会釈した。
そして、鈴を転がすような、涼やかで深い声が風に乗って届いてきた。
『良い寄り道になりましたわね、はまかぜ。あの子の心の風も、瀬戸内へと向きを変えたようですわ』
『へへっ、ミズカゼの姉御! あたいの旅人も、もうすぐ山を越えて海に着くところさ!』
『ええ、見届けていらっしゃい。鉄路はどこまでも繋がっていますから――』
涼太が瞬きをした一瞬の隙に、緑のドレスの女性の姿は、まるで初夏の陽炎のように掻き消えていた。
「おい、シェフ! 早く乗らないと発車しちまうよ!」
デッキからはまかぜが大きく手を振っている。
「あ、ああ! 今行く!」
涼太は駆け出し、再び銀の列車へと飛び乗った。
世界は、自分の知らないところで、目に見えない温かなレールで繋がっている――そんな不思議な予感が、涼太の胸をじんわりと満たしていた。




