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第010話:午前零時のオアシス

東京駅九番線ホームに滑り込む冷たい夜風が、雅人のすり減った革靴の底から体温を奪っていくようだった。


 相沢雅人(あいざわ まさと)、四十五歳。

 大手総合商社のエネルギー開発部門で課長を務めている。

 かつては世界を股にかけ、発展途上国にクリーンなエネルギーを届けるのだと熱い青雲の志を燃やしていた。だが、いつの間にか彼の日常は、経営陣への忖度と根回し、他部署との予算の削り合い、そしてやる気を失った部下の退職願と、深夜まで及ぶトラブルシューティングに埋め尽くされていた。

 スマートフォンがポケットの中で震える。

 液晶画面を覗けば、妻からの短いメッセージ。

『実家に帰ります。しばらく一人で考えさせてください』

 ため息すら出なかった。ただ、胸の真ん中にぽっかりと黒く深い穴が空いたような、寒々しい虚無感だけが広がっていた。


「……何やってんだろうな、俺は」


 終電間際の東京駅。酔客や家路を急ぐサラリーマンたちが、足早にコンコースへと消えていく。

 誰一人として雅人の顔を見る者などいない。何千万人もの人間がすれ違う巨大都市の中で、自分という存在が希釈され、ただの擦り切れた歯車になっていく感覚。

 スーツのポケットに手を突っ込んだ時、指先に硬い、長方形の紙の角が触れた。

「ん……? 名刺入れか……?」

 引き抜いてみると、それは見慣れない一枚の硬券切符だった。

 厚みのある褐色の紙片。表面には、どこか懐かしい活版印刷で文字が刻まれている。


┌──────────────────┐

│ [風]  風 の 切 符    │

│ 発駅:終電の東京駅       │

│ 着駅:夜が明ける場所      │

│                 │

│ 経由:真夜中の東海道・伯備線  │

└──────────────────┘


「風の、切符……?」

 雅人が眉をひそめたその時、ホームの発車案内標がピピピと静かな電子音を奏でた。

 ――二十一時五十分。寝台特急、入線。

 遠く有楽町方面の闇を照らしながら、二筋の柔らかなヘッドライトが近づいてくる。

 入線してきたのは、現代の日本で唯一生き残った定期夜行寝台特急――『サンライズエクスプレス』だった。

 ワインレッドのルーフに、朝焼けを思わせる温かみのあるウォームベージュの車体。十四両編成の長い巨躯が、滑るようにホームを撫でていく。

 プシューッ、と静かな空気音が響き、目の前のデッキ扉が開いた。


「こんばんは、旅人さん」


 そこには、一人の女性が立っていた。

 雅人は思わず息を呑んだ。

 年の頃は二十代後半から三十歳前後だろうか。艶やかな長い黒髪は、毛先にかけて茜色の朝焼けのような柔らかなグラデーションを描き、車掌用の琥珀色のバレッタでゆったりと束ねられている。

 身に纏うのは、車体と同じベージュとサンライズレッドのラインがあしらわれた、気品あるジャケットと優雅なロングスカート。

 何より雅人の目を奪ったのは、その瞳だった。

 深い琥珀色の瞳は、真夜中の闇を温かく見守るランプのように、雅人の疲れ切った心を静かに包み込んでいた。


「……あ、あの、車掌さんですか? 僕、寝台券なんて買ってなくて……」

 慌てて後ずさりしようとする雅人に、彼女はふわりと微笑んだ。

「いいえ、持っていらっしゃいますわ。その、手の中にある『風の切符』を」

「これ……?」

「ええ。もう十分に走られたのでしょう? 今夜はもう、戦わなくてもよろしいのですよ」


 その声は、まるでビロードの毛布のように滑らかで、雅人の張り詰めていた心の琴線を震わせた。

 彼女は優雅に手を差し伸べ、雅人の手から硬券を受け取ると、代わりに一本の真鍮製の鍵を握らせてくれた。

「私の名前は『サンライズ』。夜を越えて、新しい朝を運ぶ者。さあ、雅人さん。私の部屋へいらっしゃい」


 なぜ自分の名前を知っているのか、尋ねる暇すらなかった。

 雅人はまるで夢遊病者のように、彼女の引く手の温もりに誘われて、静まり返った車内へと足を踏み入れていた。

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