第011話:車窓を流れる東海道の灯
案内された個室寝台『シングル』は、まるで隠れ家のような静けさに満ちていた。
住宅メーカーと共同開発されたという木目調の壁面。天井まで続く曲面の大きな窓。ふかふかのベッドには、清潔な糊の効いたシーツと、柔らかな羽毛布団が整えられている。
雅人は重い革靴を脱ぎ、スリッパに足を滑り込ませた。
それだけで、足の裏からふっと緊張が解けていくのが分かった。ビジネスマンにとって、靴を脱ぐという行為は、社会という戦場からの武装解除に他ならない。
「失礼いたしますね」
控えめなノックとともに、サンライズがマグカップを載せたトレイを手に現れた。
「どうぞ。カモミールと、少しのレモンとハチミツを浮かべてありますの。冷えたお身体に染みますわよ」
「……すみません、お気遣いいただいて」
マグカップを受け取ると、両の手のひらに優しい温もりが広がる。
一口含むと、リンゴのような甘い花の香りと、レモンの爽やかな酸味、ハチミツの柔らかな甘みが喉を滑り落ち、胃袋をじんわりと温めてくれた。
「電車が、動いてますね……」
ベッドの端に腰掛け、雅人は窓の外を見つめた。
列車はすでに多摩川を渡り、神奈川県へと入っていた。
漆黒の闇の中、川崎や鶴見の製鉄所、石油コンビナートの無機質な白いライトと赤い誘導灯が、まるで地上に降りた星座のように流れていく。
「東海道を西へ下っておりますわ。熱海を抜け、静岡の茶畑をかすめ、豊橋、名古屋……夜のあいだに、何百キロもの距離を駆け抜けますの」
サンライズは壁に背を預け、優雅に腕を組んで窓の外を眺めた。
「雅人さん。あなたの心の中に、誰かの顔が浮かんでいらっしゃいますね」
不意を突かれ、雅人はマグカップを持つ手を止めた。
「……どうして、そんなことまで」
「この列車に乗るお客様は、みなさま何かを置いてくるか、あるいは、何かを探しに行かれる方ばかりですから。あなたの瞳は、遠い昔の誰かを探していらっしゃいます」
雅人は自嘲するように目を伏せ、湯気を見つめた。
「……親友が、いたんです。大学時代、バックパッカーで一緒にアジアやヨーロッパを貧乏旅行した、修二っていう男です」
「修二さん……」
「金はなかったけど、毎日が楽しかった。いつか四十を過ぎて、お互い一人前の男になったら、出雲の宍道湖で夕陽を見ながら地酒を酌み交わそうって、二十五年前に約束したんです」
雅人は喉を詰まらせた。
「でも……俺は商社に入って、目の前の仕事や出世に夢中になって……修二からの電話やメールを、『忙しいから後で』と先延ばしにしているうちに、いつの間にか十年も連絡を取らなくなってしまった。気づいた時には、あいつの携帯番号も変わっていて……」
「そうでしたの」
「最近、風の噂で聞いたんです。あいつは大病を患って会社を辞め、奥さんの実家がある島根の湖のほとりで、小さな木工工房を始めたって。……なのに俺は、合わせる顔がないからって、それすら見て見ぬふりをした。仕事ばかりにかまけて、妻の寂しさにも気づかず、逃げ出されて……俺の人生は、一体何だったんだろうなって……」
男泣きに震える雅人の肩に、そっと柔らかな手が置かれた。
サンライズの琥珀色の瞳が、慈愛に満ちて雅人を見つめていた。
「夜はね、後悔を数える時間ではありませんのよ、雅人さん」
「え……?」
「後悔も、痛みも、すべて抱えたまま、ただ目をお閉じなさい。列車が走るレールはね、過去から未来へとしか伸びておりませんの。どんなに暗い夜であっても、車輪が一回転するごとに、あなたは朝へと近づいているのですから」
サンライズは雅人の額にかかる前髪を、まるで幼子をあやすように優しく撫でた。
「朝陽はね、誰にでも平等に登るのです。やり直したいと願う人には、なおのこと温かく」
その言葉は、冷え切っていた雅人の心の奥深くに、小さな灯火を灯すようだった。
「……ありがとう、サンライズ」
「おやすみなさいませ、旅人さん。目覚めたときには、新しい風が吹いておりますわ」
カチリ、と扉が閉まる音。
ベッドに身を横たえ、毛布を引き上げると、かすかなレールのジョイント音――タダン、タダンという子守唄が全身を包み込んだ。
雅人は何年ぶりかに、悪夢を見ない深い眠りへと落ちていった。




