第088話:削ぎ落とす美、万願寺とうがらしの素焼き
丹波篠山の朝は、小鳥たちの囀りと、澄み切った冷気とともに明けた。
古民家の土間。朝露を浴びた庭の緑が、朝日を受けて鮮やかに輝いている。
竈の灰の中で、勘助が昨夜の炭火に火種を移し、七輪の上に焼き網を載せた。
「陽介、朝飯の支度だ。昨日の万願寺とうがらしを焼くぞ」
「はい……! 下ごしらえをします。包丁でヘタを落として、種を抜いて――」
「馬鹿野郎」
包丁を握ろうとした陽介の手を、勘助がピシャリと制した。
「ヘタも種もそのままだ。何もしねえで、網の上にゴロンと転がせ」
「え……? 種も取らないんですか? 口当たりが悪くなりませんか?」
「焼いてから言え。万願寺の種は柔らかくて、一番甘みが詰まっとるんだよ」
言われるがままに、陽介は朝採れの肉厚な万願寺とうがらしを、炭火の網の上に並べた。
油も塗らず、塩も振らず、ただ炭火の上に置いただけ。
パチ、パチ……と炭が小さく音を立てる。
数十秒もすると、鮮やかな緑色の皮が熱を帯び、プツプツと小さな水泡を浮かべ始めた。
やがて、皮の表面に黒い焦げ目がつき始めると、甘く香ばしい湯気が立ち上ってきた。
青臭い刺激臭ではない。まるで焼き芋やトウモロコシを焼いているかのような、濃厚な糖分の焦げる甘い香り。
「ひっくり返せ。火の通りが早いから、目を離すなよ」
竹箸で転がすと、皮がしんなりと柔らかくなり、内側からプシューッと熱い蒸気が吹き出した。
全身に均一に虎模様の焦げ目がついたところで、勘助が網から平皿へと引き上げた。
「味付けは、これだけだ」
勘助が差し出したのは、ほんの少しの荒塩と、木箱から掻き出したばかりの極薄の鰹本枯節、そして木桶で仕込まれた生醤油の瓶だった。
万願寺とうがらしの上に、削りたての鰹節がフワリと躍る。
そこへ、生醤油をほんの一滴、チロリと垂らす。
ジュッ、と微かな音がして、焦げた醤油と鰹の芳醇な薫香が立ち上った。
「ほれ、熱いうちにかぶりつけ!」
さがのが笑顔で促す。
陽介はヘタを指でつまみ、湯気を立てる熱々の万願寺とうがらしを口へと運んだ。
丸ごと一本、前歯で思い切りかぶりつく。
「――ッ、熱っ……! そして――!!」
パリッ、と炭火で焦げた薄皮が弾けた瞬間、口の中に熱々の果汁が津波のように溢れ出してきた。
生でかじった時以上の、圧倒的な水分量。
蒸し焼きにされた果肉は、トロリと極上のジャムのように舌の上でとろけていく。
懸念していた種は、全く口に触らない。それどころか、種とその周りのワタの部分が、信じられないほどの甘露のような蜜を蓄えていた。
炭火の香ばしさ。
凝縮された野菜の濃密な甘み。
そこへ、極薄の鰹節のイノシン酸と、生醤油のキレのある塩気が合流する。
調味料は最小限なのに、味の輪郭が驚くほど鮮明で、噛むたびに口の中が幸福感で満たされていく。
「……美味い」
陽介は立ち尽くしたまま、二口目、三口目と貪るように食べ進めた。
最後にはヘタの付け根だけを残し、種の一粒まで綺麗に平らげていた。
「信じられない……。コンフィにもせず、複雑なジュレもかけず、飾り包丁すら入れず……ただ炭火で丸ごと焼いただけなのに、なぜこんなにも深い味になるんだ……!?」
「それが、『命の力』や」
さがのが、嬉しそうに自らの分のとうがらしをかじりながら言った。
「万願寺とうがらしはな、自分の皮という最高の器の中で、自分の水分だけで蒸し焼きにされたんや。だから、旨味も甘みも一滴も逃げへん。包丁を入れて刻んでしもたら、その大事な果汁がまな板の上に全部こぼれてしまうんよ」
包丁を入れないことが、最高の調理法になる――。
その事実は、これまで「包丁の細工切りこそが料理人の腕の見せ所」と信じ込んでいた陽介の価値観を、根底から覆した。
食材の細胞を傷つけず、命をそのまま生かす。
そのためには、時には「何もしない」という勇気、足し算ではなく徹底的な「引き算」の哲学が必要だったのだ。
「料理人はな、画家に似とる」
勘助が、お茶をすすりながら静かに語りかけた。
「下手な画家は、キャンバスを絵の具で真っ黒に塗りつぶして、自分の腕を誇示しようとする。だが、本当に腕のいい画家は、白い余白を大切にするんだ。その余白に、風が吹き、光が差し込むのを知っとるからだ。……陽介、お前の料理には、余白があったか?」
「余白……」
陽介は、胸に手を当てた。
なかった。自分の料理には、一ミリの余白もなかった。
客に「どうだ、凄いだろう」と押し付ける技巧と、強烈な香りと、濃厚な味付けで隙間なく埋め尽くしていた。
「俺の料理には……風も、光も、通っていませんでした」
陽介の瞳から、一筋の光が零れた。
だが、その表情に挫折の暗さはなかった。
余白の意味を知った若き料理人の心に、新しい風が吹き抜け始めていた。




