第087話:炭火の香ばしさ、猪肉とぼたん鍋の滋味
勘助の家は、築百五十年を超える立派な茅葺き屋根の古民家だった。
太い黒光りする大黒柱が支える板の間の中央には、四角く切られた本物の囲炉裏が据えられている。
赤々と熾された樫の木炭がパチッと小さな火花を散らし、自在鉤に吊るされた重厚な南部鉄器の鍋を温めていた。
「さあ、上がった上がった! 今夜は丹波の誇りを味わう夜やで!」
前掛けを締め直したさがのが、両手で大きな丸皿を囲炉裏端へと運んできた。
その皿を見た瞬間、陽介は料理人としての本能から、思わず目を見張った。
「……見事な、牡丹だ」
大皿の中央から外側に向かって、幾重にも円を描くように盛り付けられた肉の薄切り。
それはまるで、冬の寒さに耐えて咲き誇る大輪の紅牡丹そのものだった。
丹波篠山が誇る名物中の名物――『ぼたん鍋』。
丹波の険しい山々を駆け巡り、栃の実やドングリ、栗をたっぷりと食べて育った天然の猪肉。
牛や豚の肉とは一線を画す、野性の生命力を凝縮したような深い真紅の赤身。そして、その周囲を縁取る純白の脂身のコントラストが、炭火の光を浴びて神々しいまでに艶めいている。
「篠山の猟師が、一発の銃弾で即死させて血抜きした極上の猪だ」
勘助が鉄鍋の蓋を開けると、ボワッと濃密な湯気が立ち上った。
漂ってきたのは、食欲を狂おしいほどに刺激する甘辛い味噌の香り。
丹波の大豆と米で作られた自家製の三年熟成赤味噌と白味噌をブレンドし、昆布と鰹の出汁で溶いた特製の鍋つゆ。
そこへ、勘助が手づくりの笹掻きゴボウ、極太の丹波ネギ、肉厚の原木シイタケ、そして焼き豆腐をドサリと投入した。
「猪肉はな、牛や豚と違って、煮込めば煮込むほど脂が締まって甘みが出る。固くならねえんだ。遠慮はいらねえ、どっさり入れろ!」
牡丹の花びらを解くように、美しい猪肉を沸き立つ味噌つゆの中へと滑り込ませる。
ジュウジュウと煮え立つ音。
味噌の濃厚な香りと、ゴボウの大地を思わせる野趣あふれる香り、そして肉の脂が熱い汁に溶け出す芳醇な匂いが、古民家の高い天井へと充満していく。
陽介の喉が、ゴクリと激しく鳴った。
「ほれ、もうええ頃合いや! 熱いうちに食べぇ!」
さがのが取り鉢に、たっぷりの味噌つゆとともに猪肉と野菜をよそってくれた。
仕上げに、小皿の粉山椒を一振り。
ピリリとした柑橘系の清涼な香りが立ち上る。
陽介は割り箸を割り、白脂をたっぷりとまとった熱々の猪肉を持ち上げた。
添えられた地鶏の生卵を軽く溶き、肉をサッとくぐらせて、一気に口の中へ放り込んだ。
「――ッッ!!」
噛んだ瞬間、陽介の脳髄に激震が走った。
臭みなど、微塵もない。
赤身は驚くほどきめ細やかで、噛み締めるたびに濃厚な野性の旨味がジュワリと溢れ出してくる。
そして何より――脂身だ。
白く分厚い脂身は、決してギトギトともたれることがない。サクサクとした小気味よい歯ごたえを残しながら、体温でふわりと溶け、信じられないほどの澄み切った「甘み」となって舌全体を覆い尽くすのだ。
そこに絡みつく、三年熟成の丹波味噌の深いコクと塩気。
そして、粉山椒の爽快な刺激と生卵のまろやかさが、すべての味を一つにまとめ上げ、極上の余韻へと昇華させていく。
「う、美味い……! なんだこの脂の甘さは……!? 煮込んでいるのに、肉が全く固くならないどころか、噛めば噛むほど旨味が溢れてくる!」
「せやろ!」
さがのが嬉しそうに目を細め、熱々の白ネギを頬張る。
「丹波の猪はな、山の実りをぎょうさん食べて走り回っとるから、脂に雑味が一切ないんよ。ドングリや栗の甘みが、そのまま脂の味になっとるんや」
「陽介、こいつを煽ってみろ」
勘助が、囲炉裏の灰に差し込んで温めていた徳利から、蛇の目のお猪口へと琥珀色の酒を注いだ。
丹波篠山の老舗蔵元が醸す地酒『鳳鳴』の熱燗。
陽介はお猪口を持ち上げ、熱い酒を喉へ流し込んだ。
ツンとしたアルコール感のない、米の力強い旨味と骨太な酸味。
熱燗の熱さが胃の腑へと落ちていくのと同時に、口の中に残っていた猪の脂がさらりと洗い流され、次の肉を求める猛烈な渇望が湧き上がってくる。
「……酒と、肉と、土の野菜が……完璧に手を結んでいる」
陽介は呟いた。
「笹掻きゴボウの土の香りが、猪の野性を引き立て、丹波ネギの甘みが味噌をまろやかにする。そして、この土地の水と米で造られた酒が、すべてを抱きしめる……。これが、郷土料理の、本当の力なのか……!」
自分が祇園で作っていた料理は、何だったのか。
世界中から集めた高級食材を並べ、複雑なソースで味を重ねていた。
だが、このぼたん鍋には、余計な飾りなど何一つない。
山を走る猪、土に育つ野菜、蔵に眠る味噌――この土地の命と風土が、ひとつの鍋の中で奇跡の調和を遂げていた。
「料理はな、足し算じゃねえんだよ」
勘助が静かに酒を呷りながら言った。
「素材の命が立ってりゃ、余計なもんを足す必要はねえ。命をそのまま客の腹に届けるために、邪魔なもんを削ぎ落としてやるのが、料理人の本当の仕事じゃねえのか?」
邪魔なものを、削ぎ落とす――。
その言葉が、熱い味噌つゆとともに、陽介の五臓六腑へと染み渡っていった。
囲炉裏の炭火が静かに爆ぜる。
古民家の夜は更け、若き料理人の魂は、引き算の極意という新たな地平へと足を踏み入れようとしていた。




