第086話:丹波篠山の黒土、不揃いな枝豆の力
山陰本線の普通列車に乗り継ぎ、京都府から兵庫県へと県境を越えて、丹波篠山の盆地へとやってきた。
城下町の面影を残す篠山の町外れには、見渡す限りの広大な黒土の田畑が広がっていた。
亀岡の土よりもさらに黒く、ねっとりとした重みを持つ粘土質の土壌。
「ここが、日本一の丹波黒豆を育てる大地や」
さがのが誇らしげに胸を張る。
「篠山の土はな、太古の昔に湖の底やった粘土層に、山からのミネラルが何万年も堆積してできた奇跡の土なんよ。水持ちがええのに水はけもええ、栄養満点の重たい黒土や」
あぜ道の先、麦わら帽子を深くかぶり、鍬を振るっている老人の姿があった。
背中は丸まっているが、腕には節くれだった筋肉が浮き出ている。
「勘助じいちゃん!」
さがのが声をかけると、老人は手を止め、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭った。
勘助、七十五歳。この地で三代にわたり、農薬を極力使わず丹波黒豆を作り続けている孤高の老農家である。
「おう、さがののお嬢か。また賑やかなのを連れてきたな」
「京都の祇園の料亭で、親方に怒鳴られて包丁取り上げられた料理人さんや。土の匂いを教えに連れてきたんよ」
「おい、さがの!」
陽介が慌てて制止するが、勘助は意に介した風もなく、値踏みするように陽介の足元から手先までをじろりと一瞥した。
「祇園の料理人か。……綺麗な手ぇしとるな。爪の先までピカピカだ」
勘助の言葉には、どこか冷ややかな響きがあった。
「あんたら料理人が市場で買う黒豆は、機械で選別されて大きさが揃った、ピカピカの箱入り娘ばかりだ。だが、畑でどうやって育っとるか、見たことあんのか?」
「……ありません」
「なら、そこの畝を素手で掘ってみろ。黒枝豆の根っこだ」
陽介は躊躇した。
料理人にとって、手は命だ。日頃から傷をつけないよう手袋をし、衛生管理に神経を尖らせてきた。
だが、勘助の射るような視線と、隣で見守るさがのの真剣な眼差しに押され、陽介は意を決して膝をついた。
素手を、黒土の中へと差し入れる。
「――っ、重い……!」
指先を沈めた瞬間、土の強烈な抵抗に驚いた。
ふかふかとした軽い園芸用の土とはまるで違う。水分をたっぷりと含んだ重厚な粘土質の土が、まるで生き物のように陽介の指をぎゅっと締め付けてくる。
冷たく、湿り気を帯び、そして驚くほど濃厚な大地の生命感が、指先の皮膚を通して掌全体へと伝わってくる。
力を込め、土を掻き分ける。
爪の間に、真っ黒な土が容赦なく入り込んでいく。
やがて、網の目のように四方八方へと張り巡らされた、力強い根の塊に触れた。
「抜くなよ。根粒菌を見るんだ」
勘助の声に従い、陽介は根の周りの土を優しく払った。
太い主根から無数に枝分かれした細根のあちこちに、小さな丸い粒々が無数に付着している。
「この小さな粒の中に、大気中の窒素を栄養に変えて土に還す微生物が棲んどる。丹波の黒豆はな、肥料をやればやるほど葉っぱばかり茂って実がつかねえ。痩せた土で、微生物と手を取り合い、過酷な夏を耐え抜いてこそ、あの大粒の黒真珠のような豆が実るんだ」
勘助は一株の黒枝豆の鞘をもぎ取り、陽介の掌に載せた。
市場で見かける綺麗な緑色の枝豆とは、似ても似つかなかった。
表面には茶褐色の産毛がびっしりと生え、黒い斑点が点々と散らばり、形も歪で不揃い。
しかし、鞘を指で押すと、中に入っている豆の巨大さと、パンパンに張った密度の高さが痛いほど伝わってきた。
「不揃いだろう? 市場じゃ『規格外』って撥ねられる奴だ」
勘助は笑った。
「だがな、味はこいつが一番だ。虫食いの葉っぱの下で、必死に光を求めて根を張った奴ほど、豆の甘みとコクが段違いに深え。……土を汚いと思うような奴に、この豆の本当の誇りは引き出せねえよ」
「土の……誇り……」
陽介は、泥まみれになった自らの両手を見つめた。
爪の間に入り込んだ黒土。
その土から立ち上る、深く力強い大地の香り。
これまで「不潔」「排除すべきもの」として遠ざけていた泥が、今、自分の中でかけがえのない命の母体として脈打っているのを感じた。
「俺は……形が揃っていることばかり気にしていました」
陽介の声が震えた。
「皿の上の見た目を美しくするために、少しでも歪な野菜は切り捨てて、ゴミ箱に放り込んでいた。……命の重さも知らずに、上っ面だけの美しさに溺れていたんです」
勘助はふっと表情を和らげ、陽介の泥だらけの手を握りしめた。
節くれだった農家の温かい掌の感触が、陽介の胸の痛みを包み込んでいく。
「分かればいいさ。……腹が減っただろ。日が暮れる。今夜はうちの囲炉裏で、丹波の山の神様からいただいた命を食わせてやる」
「山の神様の……命?」
「ふふ、丹波篠山の冬から春のご馳走といえば、アレしかないやんな!」
さがのが目を輝かせて飛び跳ねた。
夕闇が迫る丹波篠山の空に、藍色の帳が降りていく。
若き料理人の五感は、大地の深淵へと、さらに深く引き込まれようとしていた。




