第085話:亀岡の朝霧、京野菜の瑞々しき朝露
保津峡の険しい断崖を抜け出たトロッコ列車は、終点のトロッコ亀岡駅へと滑り込んだ。
駅を降りた瞬間、陽介を取り巻く空気の質感が一変した。
嵐山の洗練された雅な観光地の気配は消え去り、そこには四方を緑豊かな山々に抱かれた、広大な亀岡盆地が広がっていた。
「……ひんやりとしているな」
陽介は思わず腕を擦った。
初夏の昼下がりだというのに、吹き渡る風には山あいの冷気が混じっている。
「そうやで。亀岡は盆地やからな、昼はしっかりお日様が照って暑うなるけど、夜になると山から冷たい空気が吹き下りて一気に冷え込むんや。この強烈な寒暖差こそが、美味しい京野菜を育てる魔法なんよ」
さがのが藁草履の足取りも軽やかに、田園地帯のあぜ道へと歩き出す。
見渡す限りの畑。
そして、遠くの山裾には、白いヴェールのような霧がたなびいていた。
「秋から春にかけてはな、この盆地全体が真っ白な『丹波霧』に包まれるんや。視界が十メートル先も見えへんようになるくらい深い霧。その霧が大地を潤して、野菜の葉っぱを優しく包み込んで守るんやで」
あぜ道を歩き、一軒の農家の圃場へと足を踏み入れる。
そこには、陽介がこれまで料亭の厨房でしか見たことのなかった京野菜たちが、大地にしっかりと根を張り、太陽の光を浴びて呼吸していた。
まず目を奪われたのは、人の背丈ほどもある立派な葉を広げた『賀茂茄子』の畝だった。
トゲのある大きな緑の葉の影に、丸々と太った巨大な紫黒色の実がぶら下がっている。
表面には、朝露の名残が細かな水滴となってびっしりと付着し、初夏の陽光を受けて宝石のようにキラキラと乱反射していた。
手のひらで包み込むと、ずっしりとした重みが伝わってくる。皮はピンと張り詰め、今にもはち切れんばかりの生命の圧力を内側に孕んでいた。
「……凄い張りだ」
陽介は息を呑んだ。
「市場で仕入れる賀茂茄子とは、艶がまるで違う。まるで……生きている心臓を掴んでいるみたいだ」
「生きてる心臓やないよ、生きてる命そのものや!」
さがのが笑いながら、隣の畝を指差した。
そこには、天に向かって真っ直ぐに青々とした葉を伸ばす『九条ネギ』や、黒い土から白い肩を覗かせている瑞々しい『小カブ』が整然と並んでいた。
畑の土からは、湿り気を帯びた独特の芳醇な匂いが立ち上っている。
腐葉土と堆肥が長い時間をかけて発酵し、大地の微生物たちが呼吸している匂い。
都会の厨房で漂う漂白剤や洗剤の匂いとは対極にある、濃厚で、どこか懐かしく、胸の奥を安らぎで満たすような土の香りだった。
「お兄さん。厨房におるとき、この子らのこと、どんな風に見てたん?」
さがのが、麦わら帽子を脱ぎ、額の汗を麻の袖で拭いながら尋ねてきた。
「……ただの、高級な食材だと思っていた」
陽介は正直に告白した。
「京都の老舗料亭で出すからには、伝統的な京野菜を使わなければ格好がつかない。だから仕入れ値の高い、形が整った一級品ばかりを選んでいた。……でも、どうして賀茂茄子がこんなに丸く育つのか、どうして九条ネギがこんなに柔らかく甘いのか、その理由なんて一度も考えたことがなかった」
「寒暖差と、霧と、この土があるからや」
さがのは、しゃがみ込んで黒い土を手ですくい上げた。
「夜、寒さで凍えそうになった野菜はな、凍らんように自分の身体の中のデンプンをせっせと糖分に変えるんや。自分の命を守るために、甘うなるんよ。人間が『美味しく食べたいから甘くなってくれ』と頼んだわけやない。生き抜くための必死の努力が、結果としてあの極上の甘みと旨味になるんや」
生き抜くための必死の努力――。
その言葉が、陽介の胸を鋭くえぐった。
自分はこれまで、料理人として「努力している」と自惚れていた。
人より早く厨房に入り、夜遅くまで包丁を研ぎ、新しい料理本を読み漁った。
だが、それはすべて「自分のため」の努力だった。
自分が褒められたい、自分が認められたい、自分が天才と呼ばれたい――そんな自己愛のためだけの努力。
しかし、目の前の野菜たちは違った。
誰に褒められるためでもなく、ただこの過酷な寒暖差の大地で、太陽と水と土の恵みを受け止め、命を全うするためだけに全身全霊で甘みを蓄えていたのだ。
「俺は……なんて恥知らずだったんだ」
陽介の膝が折れ、畝の間に片膝をついた。
「こんなにも懸命に命を燃やして育った野菜たちに、俺は金箔を散らし、トリュフの香りを被せ、元の味も分からなくなるような濃厚な泡をぶっかけていた……。親方が『食材が息詰まって死んでいる』と怒ったのも当然だ。俺は、料理人なんかじゃない。ただの、食材殺しだったんだ……!」
土の上に、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「泣かんでもええ、お兄さん」
さがのが、泥のついた手で陽介の肩をポンと叩いた。
「気づいたら、そこからが料理人の本当の始まりや。……亀岡の野菜の瑞々しさを知ったお兄さんに、次はもっと深い場所を見せたる。山をもう一つ越えて、丹波篠山へ行こう。あそこにはな、何百年も土と命を守り続けてきた、頑固もんのじいちゃんが待っとるんや」
陽介は涙を拭い、黒い土の温もりを手のひらに感じながら立ち上がった。
朝霧が晴れ渡った亀岡の青空の下、若き料理人の胸に、これまで抱いたことのない静かで熱い覚悟が芽生え始めていた。




