第084話:ディーゼル機関車の唸り、嵯峨野トロッコの風
トロッコ保津峡駅の簡素なホームから乗り込んだ客車は、陽介がこれまで乗ってきたどんな列車とも違っていた。
天井こそあるものの、側面には窓ガラスが一切なく、手すりと金網だけで外の世界と仕切られたオープン車両――『ザ・リッチ号』。
木製の素朴なベンチに腰を下ろすと、先頭のDE10形ディーゼル機関車が「ヴォォォォン!」と地響きのような重低音を轟かせた。排気ガスと重油の焦げる匂いが、一瞬だけ鼻をかすめる。
ガタゴト、ガタゴト……!
武骨な鉄輪がレールを踏みしめ、列車がゆっくりと動き出す。
その瞬間、渓谷の冷涼な風が、遮るもののない車内へと怒涛のように雪崩れ込んできた。
「――っ!!」
陽介は思わず息を詰めた。
初夏の陽光に照らされた新緑の山肌から、何千、何万というモミジやカエデ、山桜の若葉が揺れ、青々とした木々の精気がダイレクトに肺腑を満たす。
保津川の激流が巻き上げる冷たい水煙。
川底の濡れた苔の香り。
そして、崖の岩肌から滲み出す湧き水の匂い。
視覚、聴覚、嗅覚――都会の密閉された厨房で鈍っていた感覚器官が、強烈な青嵐の洗礼を受けて、強制的に叩き起こされていくようだった。
「どや、お兄さん! ええ風やろ!」
向かいの木のベンチに藁草履を揃えて座ったさがのが、麦わら帽子を押さえながら快活に笑った。
「この嵯峨野観光鉄道はな、もともと山陰本線の古い線路やったんや。新しいトンネルができて役目を終えた線路を、『この保津峡の美しい景色をお客さんに見てほしい』っちゅうて、みんなで手入れして甦らせたんやで」
眼下を流れる保津川。
ちょうどその時、奇岩の間を縫うように、一艘の木造和船が急流を下っていくのが見えた。『保津川下り』の観光舟だ。
水しぶきを浴びながら三人の船頭が長い竿と櫂を操り、巧みに舟を激流の波間に滑り込ませていく。
船頭の一人が頭上のトロッコ列車に気づき、笠を上げて大きく手を振った。
「おーい! ええ天気やなー!」
「おっちゃん、気ぃつけてなー!」
さがのが身を乗り出して元気に手を振り返す。
櫂が川底の岩を突く「コーン!」という乾いた音と、舟客たちの歓声が、谷あいに木霊して消えていった。
「……凄いな」
陽介は呟いた。
「舟も、この列車も……自然の懐にそのまま飛び込んでいるみたいだ」
「せやろ? 風を遮るガラス戸なんて、ここには要らんのや。大自然の息遣いをそのまま肌で感じてこそ、人は自分が生きとることを思い出すんやから」
さがのは腕に抱えていた竹籠を、二人の間の木製テーブルの上にコトッと置いた。
籠の中には、朝露に濡れた泥付きの野菜たちがぎっしりと詰まっている。
丸々と太った紫黒色の賀茂茄子、瑞々しい九条ネギ、そして――。
「ほれ、お兄さん。手ぇ出して」
「え……?」
言われるがままに掌を出すと、さがのは籠の中から、一本の巨大な青唐辛子を手渡してきた。
万願寺とうがらし。
普通の青唐辛子の三倍はある、長さ十五センチほどの堂々たる肉厚の唐辛子。
表面にはまだ土が薄っすらと付着しており、朝採れならではのピンと張った皮が、陽光を反射して艶やかに光っている。
「……万願寺とうがらしだな。市場で毎日見ているよ。うちの店では、種を抜いて細切りにし、フォアグラのソテーに添えたり、天ぷらにして――」
「そんな講釈はええねん。かじってみ?」
「はあ!? 生のままかじるのか? 泥もついてるし、加熱して甘みを引き出さないと――」
「ええから! 泥なんか袖でちょいちょいと拭いたらええ! ほら、あーん!」
さがのが無理やり陽介の口元へ唐辛子を突き出してきた。
抗いきれず、陽介は覚悟を決めて、先端を前歯でパキリと噛み千切った。
「――ッ!?」
刹那、陽介の目が限界まで見開かれた。
パリンッ、という小気味よい破砕音とともに、口の中に信じられないほどの水分が弾け飛んだのだ。
まるで、もぎたての完熟フルーツにかじりついたかのような錯覚。
辛味など微塵もない。
肉厚な果肉から溢れ出してくるのは、清涼で、瑞々しく、そしてどこまでも濃厚な「甘み」だった。
その甘みの奥から、太陽の光と、清らかな保津川の伏流水と、初夏の青葉の香りが、鼻腔を一気に突き抜けていく。
後味に、ほんの微かに残る大地のほろ苦さ。それがまた、次の果汁を求めさせてやまない。
「な……なんだこれ……! 甘い……! フルーツみたいだ……! 万願寺とうがらしって、こんなに水分があったのか!?」
「ふふ〜ん♪」
驚愕する陽介を見て、さがのは得意げに麦わら帽子を揺らした。
「びっくりしたやろ? これが、朝採れの力や。お日様が昇る前、畑の土が夜露を吸い上げて、一番水分と糖分を蓄えとる時間に収穫するんや。その命のしずくが、そのまま皮の中に閉じ込められとるんよ」
陽介は手元の万願寺とうがらしを見つめた。
自分が厨房で扱っていた万願寺とうがらしは、市場の段ボール箱に入って届いたものだった。
綺麗に洗われ、ラップに包まれ、泥の欠片すらついていなかった。
自分はその野菜を「素材A」としてしか見ていなかった。
どうやって美しく切り揃えるか、どんな油で揚げるか、どんなソースをかけるか――そんなことばかり考えて、この唐辛子自身が持っている命の爆発を、一度として味わおうとしたことがなかった。
「……お兄さん」
さがのが、優しい声で語りかけてきた。
「お兄さんは、包丁の名人なんやろ? 綺麗な飾り包丁で、お客さんを喜ばせてきたんやろ?」
「……ああ。そう自負していた」
「でもな、包丁を入れる前に……この子らが畑でどう生きてきたか、雨の日にどう耐えて、お日様の下でどう実を太らせてきたか、耳を傾けてあげたことはあったんか?」
その言葉は、親方・厳造の怒号よりも深く、鋭く、陽介の胸を貫いた。
――耳を傾けてあげたことはあったか。
「なかった……」
陽介の指が震えた。
「俺は、自分の包丁の腕を見せびらかしたかっただけだ。食材を、自分の引き立て役としか思っていなかった……!」
「ええんよ、今気づいたんやから」
さがのは優しく微笑んだ。
「列車はもうすぐ、山を抜けて亀岡に入ります。そこから先は、霧が育てる京野菜のふるさと、そして黒い土の宝庫・丹波篠山や。……お兄さん、自分の手で土を触ってみぃひんか?」
ディーゼル機関車の汽笛が、渓谷を抜けて開けた空へと高らかに吸い込まれていく。
保津峡の青嵐を抜けたトロッコ列車は、霧煙る丹波盆地へと向かって、力強く進んでいった。




