第083話:保津川の激流、奪われた包丁
京都・嵐山の奥深く。
亀岡から嵐山へと至る保津川の渓谷は、初夏の眩い日差しを浴びて、燃え立つような若葉の青嵐に包まれていた。
両岸から切り立つ険しい岩肌を、エメラルドグリーンの激流が白波を立てて噛み砕き、轟々たる地鳴りのような水音が峡谷の底から響き渡っている。初夏特有の瑞々しい杉の葉の香りと、水煙がもたらす冷涼な飛沫が、吹き上げる突風とともに渓谷を駆け抜けていた。
その急流の上に架かる、鉄骨造りの古い吊り橋。
足元の隙間から百メートル下の荒瀬が見えるその橋の欄干に、一人の若い男がすがりつくように佇んでいた。
栗山陽介、二十八歳。
仕立ての良い紺のシャツの袖を捲り、端正な顔立ちを苦悩と屈辱で歪ませた男の肩には、布に包まれた長い荷物が一本、ぽつりと掛けられていた。
「……俺の料理の、何が悪いって言うんだ」
激流の轟音にかき消されそうな掠れた声が、欄干から零れ落ちる。
陽介は、京都・祇園で三代続く老舗料亭『千歳庵』の若き花板(板前)だった。
十四歳から厨房に入り、人一倍厳しい修行に耐え抜いた。類まれな動体視力と手先の器用さで、針の穴を通すような菊花蕪の細工切りを極め、現代フランス料理の低温調理やエスプーマ(泡の技法)を取り入れた華やかな創作料理で、雑誌やテレビにも「新世代の天才料理人」として持て囃された。
だが、昨日行われた次期総料理長を決める社内コンペティションで、彼の築き上げた城は一瞬にして崩壊した。
陽介が自信満々で提出したのは、最高級の丹波牛とフォアグラに、トリュフを効かせた京味噌のエスプーマを添え、金箔と食用花で彩った極彩色の皿だった。
審査員を務めた若い旦那衆からは感嘆の声が漏れた。勝った、と陽介は確信した。
しかし――審査の席に座っていた、陽介の育ての親であり、頑固一徹で知られる総料理長・厳造は、その皿に一口も箸をつけなかった。
そして、冷え切った目で陽介を見据え、氷のような声で言い放ったのだ。
『陽介。お前の皿には、土の匂いがせえへん』
『な……っ!? 親方、何を仰っているんですか! この牛肉は丹波の特選A5、味噌も天保年間から続く蔵元の――』
『黙れ!』
厳造の怒号が、静まり返った広間に雷鳴のように轟いた。
『食材はな、お前の浅ましい腕自慢のために生まれてきたんやない! 牛の命も、畑の泥にまみれて育った野菜の苦労も、お前の自己顕示欲の化粧でぜんぶ息が詰まって死んどるわ! そんな薄っぺらい料理を客に出すくらいなら、店畳んだ方がマシじゃ!』
激昂した厳造は、陽介が一番大切にしていた包丁巻きを奪い取った。
出刃、薄刃、刺身、骨すき――陽介が十代の頃から給料を注ぎ込んで買い集めた数十本の包丁たち。
『この包丁はお前にはまだ早いわ。包丁の重みも知らん奴に、食材を切り刻む資格はない! 出て行け! 二度と敷居を跨ぐな!』
厨房から叩き出された陽介の手元に残されたのは、十七歳の時に初めて弟子入りを認められた際、厳造から「これ一本で飯を食えるようになれ」と手渡された、福井の越前打刃物の名匠が鍛えた一本の柳刃包丁だけだった。
「食材を……殺している、だと?」
陽介は吊り橋の欄干を拳で激しく叩いた。
「俺は誰よりも勉強してきた! 客が喜ぶ美しい皿を、最新の技術を追求して何が悪い! 古臭い親方の頭が時代についてこれてないだけだろ……っ!」
だが、怒りを吐き散らせば散らすほど、胸の奥で冷たい空虚が広がっていくのを誤魔化せなかった。
本当は分かっていたのだ。
あのコンペの皿を作っている時、陽介が考えていたのは「どうすれば親方を驚かせられるか」「どうすれば雑誌の記者に写真を撮ってもらえるか」ということばかりだった。
目の前にある野菜がどこで育ち、どんな農家がどんな思いで収穫したのかなど、一度も考えたことがなかった。
「……くそっ。もういい。料理なんて、全部やめてやる」
陽介は、背負っていた越前打刃物の柳刃包丁を、激流の保津川へと投げ捨てようと手を伸ばした。
その時、シャツの胸ポケットから、何かがポロリと滑り落ちた。
吊り橋の板張りの隙間に挟まったのは、今朝、京都駅の切符売り場の片隅で拾った奇妙な紙片だった。
厚みのある活版印刷用の硬券。
行先も、運賃も、日付もない。
ただ中央に『風の切符』とだけ、深い藍色の文字で印刷されていた。
「……なんだよ、これ」
陽介が屈み込んで切符を拾い上げた、その時だった。
「あきまへん! そんな綺麗な包丁、川に捨てたらバチが当たりますえ!」
からりと澄んだ、京都と丹波の訛りが混じった少女の声が、吊り橋の向こうから飛んできた。
え――?
陽介が顔を上げると、吊り橋の袂から、一人の不思議な少女がパタパタと小走りで近づいてくるところだった。
生成り色の麻の野良着に、紅葉の深紅と新緑の萌黄をグラデーションで染め上げた前掛け。足元は履き慣らした藁草履。
頭には少し歪な麦わら帽子をちょこんとのせ、跳ねるような栗色のショートヘアに、可憐な野路菊の花が飾られている。
顔には愛らしいそばかすがあり、太陽の光をたっぷり浴びた健康的な小麦色の肌。
そしてその腕には、朝露に濡れた泥付きの賀茂茄子や瑞々しい万願寺とうがらし、大粒の丹波黒豆がどっさりと盛られた丸い竹籠が、誇らしげに抱えられていた。
少女の瞳は、足元を流れる保津川のエメラルドグリーンそのもののように、純粋な生命力に満ち溢れていた。
「な、なんだ君は……? どこから湧いて出たんだ?」
「どこからって、うちの汽車に乗って川を渡ってきたんやないですか」
少女は人懐っこい笑みを浮かべ、吊り橋の上流を指差した。
見れば、渓谷の断崖に敷かれた単線の鉄路の上に、武骨な赤褐色のディーゼル機関車に牽かれた、開放的なトロッコ列車が静かに停車していた。
車体には『嵯峨野観光鉄道』のエンブレム。
「うちは『さがの』。この保津峡の風と、丹波の土の恵みを運ぶトロッコの鉄娘や」
少女――さがのは、陽介の胸元にある硬券切符を覗き込み、嬉しそうに目を細めた。
「やっぱりや。風の切符のお客さんやな。……お兄さん、えらい怖い顔して川見つめてはったなぁ。そんな鬼瓦みたいな顔してたら、せっかくの美味しいもんも全部逃げていくで?」
「うるさいな……! 俺の勝手だろ。包丁を捨てようが、料理を辞めようが、君には関係ない!」
「関係大ありや!」
さがのはぷくっと頬を膨らませ、陽介の手から柳刃包丁の包みをひょいと奪い取った。
「この包丁、持っただけで分かるわ。職人さんが真っ赤な炎の中で何千回も叩いて、魂込めて作ったええ包丁や。お兄さんが何年も大切に研いできた手の温もりも、ぎょうさん残っとる。……それを川に捨てるやなんて、お天道様が許しても、うちが許さへん!」
「返せよ! 俺にはもう、それを使う資格なんてないんだよ! 親方から『お前の料理には土の匂いがしない』って切り捨てられたんだ!」
陽介の叫びを聞いたさがのは、ふと動きを止め、竹籠を抱え直した。
そして、怒るでもなく、呆れるでもなく、どこか慈しむような優しい眼差しで陽介を見つめた。
「土の匂い、か……。ええ親方さんやなぁ」
「はあ!? 何が『ええ親方』だ!」
「だって、そうやんか。お兄さんのことがどうでもよかったら、そんな痛いところ突いてくれへんもん。……お兄さん、土の匂い、知らんの?」
「知るわけないだろ! 俺は料亭の厨房で生きてきたんだ! 畑の泥臭い匂いなんて、料理には邪魔なだけだ!」
「ふふん、やっぱり頭でっかちの迷子さんや」
さがのはニッと白い歯を見せて笑うと、陽介の腕をぐいっと引っ張った。
「乗ってきぃ、うちのトロッコ列車に。保津川の青嵐を浴びて、亀岡の霧を抜けて、丹波篠山の黒い土に会いに行くんや。お兄さんのその凍りついた舌と心を、うちが丹波の里山の底力で溶かしてあげる!」
「ちょ、ちょっと待て! 引っ張るな!」
引き止めようとする陽介の抗議も聞かず、麦わら帽子の少女は、軽快な草履の足音を響かせて鉄橋へと駆け出していく。
保津峡の谷底から吹き上げる初夏の風が、二人の背中を力強く押し出していた。




