第082話:物語の始まり、東へ向かう白き風
朝靄の立ち込める東萩駅のプラットホーム。
凛とした冷気が満ちる中、東京へと戻る蓮を見送るため、はなしが静かにホームの中央に立っていた。
矢絣のリボンと絣の着物が、朝の清らかな光に照らされて美しく輝いている。
蓮の手には、真鍮の万年筆でびっしりと文字が刻まれた、誇り高き原稿用紙の束が大切に抱えられていた。
一晩中、菊ヶ浜の砂浜で書き上げた『海を渡る風の船』。
その原稿からは、潮風の香りと、日本海の波の音、そして百五十年の時を超えて甦った男たちの熱い息遣いが、はっきりと漂っていた。
「……はなしさん。万年筆、お返しします」
蓮が差し出した真鍮のペンを、はなしは首を横に振って押し戻した。
「いいえ。それはあなたがお持ちなさい」
「え……? でも、これはあなたの相棒なんじゃ……」
「相棒だからこそ、です。ペンは、文字を書き、物語を紡ぐ人の手にあってこそ輝くもの。……その万年筆は、あなたがこの長州の海で受け取った『志』の証です。最後まで書き上げてください、蓮さん。あなたの手で、彼らの船を大海原へと解き放ってあげるのです」
「はなしさん……!」
蓮は、その重厚な真鍮のペンを胸に強く抱きしめた。
その時、蓮のコートの内ポケットが、ポッと温かい光を放った。
取り出してみると、あの日、下関の波止場で手にした『風の切符』だった。
真っ白だった硬券の表面に、淡い藍色の光の粒子が集まり、鮮やかな印影が浮かび上がってくる。
夏みかんの瑞々しい葉と、力強く開かれた一冊の書物をあしらった、美しい円形のスタンプ。
――[山陰線・萩/下車前途無効・物語の胎動 完了]
文字が完全に定着した瞬間、切符は役目を終えたかのように、柔らかな光を収めた。
「……旅の終わりですね」
はなしが、細身の眼鏡を押し上げ、優雅に一礼した。
「萩の『は』、長門の『な』、下関の『し』。三つの地に眠る記憶を巡る寄り道は、これにて結びとなります。けれど、あなたの物語は、今まさに始まったばかりですよ」
「ああ! 東京に戻ったら、すぐにこの原稿を書き継ぐよ。編集者に何を言われようが、もう絶対に筆を折らない。俺の命を、この手の一文字一文字に注ぎ込んでみせる!」
蓮の力強い返答に、はなしは満面の笑みを咲かせた。
「その意気です。書き続けなさい、中原蓮。あなたが書く限り、源作さんも、辰五郎棟梁も、みすゞも……彼らの魂は、永遠に生き続けるのですから」
発車のベルが、澄んだ朝の空に響き渡った。
蓮はホームに滑り込んできた上り列車へと乗り込み、窓を開けた。
「ありがとう、はなしさん! 本当に……ありがとう!」
「行ってらっしゃいませ、若き語り部! あなたの言葉に、幸多からんことを!」
プァァァーッ、と高い汽笛を響かせ、列車がゆっくりと動き出す。
ホームの向こうで、はなしが絣の袂を大きく振りながら、いつまでも見送ってくれていた。
白壁の町並みと、青い海が、遠ざかっていく。
蓮は座席に腰を下ろし、真鍮の万年筆を握りしめ、前を見据えた。
その顔には、もう迷いはなかった。
――そういえば、と蓮は今朝、駅へ向かう途中に立ち寄った城下町の老舗和菓子屋での会話を思い出した。
店主が、納品に来た若者と親しげに話していたのだ。
『京都の料亭で修行している若旦那がね、萩の夏みかんと合わせるために、丹波の最高級の小豆と黒豆を探して山陰本線を巡っているらしいよ』
『へえ、丹波の黒豆か。土作りに命を懸けている凄腕の農家がいるって聞いたな』
丹波、そして京都。
この山陰本線の鉄路は、萩からさらに東へ、島根、鳥取、兵庫の山あいを抜け、古都・京都へと果てしなく続いているのだ。
風の切符は、次は誰の元へと舞い降りるのだろうか――。
* * *
――ところ変わって、京都・山陰本線の保津峡。
切り立った深い渓谷を縫うように、エメラルドグリーンの清流が激しく水しぶきを上げている。
山あいを吹き抜ける、初夏の若葉の香りを孕んだ瑞々しい青嵐。
トロッコ列車の線路の脇、緑鮮やかな苔むした岩の上に、一人の少女が腰掛けていた。
素朴な生成り色の麻の野良着に、茜色の前掛け。
足元は藁草履を履き、麦わら帽子の下からは、元気いっぱいの栗色の髪が跳ねている。
その腕には、朝露に濡れたばかりの艶やかな丸茄子や万願寺とうがらし、そして大粒の丹波黒豆が詰まった竹籠が、誇らしげに抱えられていた。
「ふふ〜ん♪ ええ土の匂いやなぁ。お日様の光をぎょうさん浴びて、野菜も豆もぴっちぴちや!」
少女――鉄娘『さがの』は、保津川のせせらぎに目を細め、満面の笑みを浮かべた。
その視線の先、峡谷の吊り橋の上で、包丁袋を背負い、疲れ果てた表情で佇む一人の若い料理人の姿があった。
「おや? ……あのお兄さん、えらい元気のない顔してはるなぁ。腕は確かそうなのに、大事なもんを忘れてしもたんやろか」
さがのは竹籠を抱え直すと、草履の足取りも軽やかに立ち上がった。
「よしっ! うちが丹波の里山の底力、たっぷり食べさせてあげへんとあかんね!」
新緑の保津峡を、生命力に満ちた爽やかな風が駆け抜けていく。
鉄娘たちの寄り道旅は、豊かな土と京の味覚が息づく、美しき里山へと続いていくのだった――。
(第八章 了/第九章『さがのと里山の青嵐、土の誇り』へつづく)




