第089話:古民家の囲炉裏、土と格闘する老農家
朝食の後、勘助は陽介を母屋の裏手にある薄暗い作業小屋へと連れて行った。
土壁に囲まれた広い小屋の中には、山のように積み上げられた腐葉土と、幾つもの巨大な木製の篩、そして長年使い込まれて刃先がすり減った何十本もの鍬や鋤が整然と並んでいた。
小屋の中には、発酵する落ち葉と米ぬか、そして深い森の奥底のような、重厚で温かい土の匂いが立ち込めている。
「陽介、これを見てみろ」
勘助が指差したのは、小屋の奥に広げられた黒い土の山だった。
陽介が近づいて掌ですくい上げると、驚くほどふんわりと柔らかく、まるで絹の粉末のように指の間からサラサラと零れ落ちていく。昨日、畑で触れた粘土質の重い土とは全く違う質感だった。
「……なんて柔らかい土だ。羽毛布団みたいだ」
「五十年だ」
勘助が静かに言った。
「毎年、秋になると山へ入ってナラやクヌギの落ち葉を何トンも集めてくる。それに米ぬかと油かすを混ぜ、何度も何度も切り返して三年かけて発酵させる。そして春先、畑の土に混ぜ込んで、腰が折れそうになりながら鍬で耕すんだ。石ころを一つひとつ手で拾い出し、水路を掘り、ミミズや微生物が棲みやすい環境を整える……。この土はな、俺の親父と俺が、人生のすべてを費やして作ってきた『命の苗床』なんだよ」
五十年――。
陽介の生きてきた年数の、倍近い年月。
一粒の黒豆、一本の茄子を育てるために、半世紀もの間、この薄暗い小屋で土と格闘し続けてきた老人の背中。
「なぁ、陽介」
勘助は、節くれだった自らの両手を前に突き出した。
手の甲には無数の傷跡があり、指の関節は太く曲がり、爪の周りは長年の泥が染み込んで真っ黒に変色している。どんな高級な石鹸を使っても、二度と落ちない大地の刻印。
「俺たち百姓はな、野菜を『育ててやってる』なんて一度も思ったことはねえよ」
「え……?」
「野菜を育てるのは、土とお天道様と雨だ。俺たちにできることなんざ、土を耕して、雑草を抜いて、虫を払って……野菜が気持ちよく育つための『お手伝い』をすることだけだ。手柄は全部、土と野菜のもんなんだよ」
勘助の言葉が、陽介の胸の奥深くに、一滴の重い雫となって落ちた。
「料理人も、同じじゃねえのか?」
勘助は、陽介の目を真っ直ぐに見据えた。
「客が『美味い』と喜んでくれた時、偉いのは誰だ? お前の包丁の技術か? お前が考えたお洒落な盛り付けか? ……違うだろ。半年かけて土の中で命を太らせた野菜と、命を差し出してくれた肉や魚が偉いんじゃねえのか? 料理人なんてのはな、食材の命が一番輝く瞬間を手助けする、黒子に過ぎねえんだよ」
料理人は、黒子に過ぎない――。
その瞬間、陽介の胸を塞いでいた最後の傲慢の殻が、木っ端微塵に砕け散った。
――俺は、何様だったんだ。
テレビに出て、雑誌で特集され、客から「さすが栗山さん、天才ですね」と持ち上げられるたびに、天狗になっていた。
自分が食材を「支配」し、自分の才能を証明するための「絵の具」として使っていた。
農家が何十年もかけて育てた土の重みも知らず、命を落とした生き物への畏敬の念も持たず、ただ「俺を見ろ」と叫んでいただけの道化だった。
「……俺は……」
陽介の膝が崩れ、小屋の土の上に両手をついた。
「俺は……何も見えていませんでした。親方の言った通りだ……! 俺の料理には、土の匂いなんてなかった……! 泥まみれになって土を作ってきた農家さんの汗も、雨風に耐えた野菜の叫びも、何一つ聞こえていなかったんだ……!」
嗚咽が漏れた。
黒い土の上に、大粒の涙がポタポタと落ち、柔らかな土に吸い込まれていく。
さがのが、そっと陽介の傍らに寄り添った。
その瞳には、保津川の清流のような清らかな光が宿っていた。
「ええんよ、陽介さん。土はな、どんな涙も、どんな失敗も、ぜんぶ受け止めて栄養に変えてくれるんや」
さがのは、陽介の背中を優しく撫でた。
「泣いて、恥をかいて、自分のちっぽけさを知った人だけが……本当の美味しいもんを作れるようになるんやで。……さあ、顔を上げて。あなたには、まだやるべきことがあるはずや」
「やるべきこと……?」
「せや」
さがのは、小屋の隅に置いてあった陽介の包みを手に取った。
親方・厳造が唯一、陽介の手元に残してくれた、布に包まれた一本の包丁。
「その包丁を、研ぎ澄ますんや。今度は、食材を殺すためやない。土の命を、そのまま客の心へ届けるための刃にするんやで」
陽介は涙を拭い、黒土の中から立ち上がった。
その両手は真っ黒に汚れていたが、その瞳には、かつてないほど純粋で澄み切った光が宿っていた。




