第079話:七化けの茶碗、泥を抱く萩焼の土
松陰神社を後にした二人は、萩の郊外、緑豊かな丘陵地に煙を上げる古い登り窯の窯元へと足を運んだ。
木々の間に佇む土壁の工房に近づくと、薪が爆ぜる芳ばしい匂いと、濡れた赤土の濃密な香気が漂ってくる。
萩焼。
文禄・慶長の役の後、長州藩主・毛利輝元によって招かれた朝鮮人陶工が祖となり、四百余年の星霜を経て受け継がれてきた伝統工芸である。古くから茶人たちの間で「一楽、二萩、三唐津」と謳われ、天下一の茶陶として尊ばれてきた。
「こんにちは」
はなしが工房の引き戸を開けると、轆轤の前に座っていた作務衣姿の老陶芸家が、顔を上げて破顔した。
「おお、はなしのお嬢ちゃんか。また珍しいお客さんを連れてきたねえ」
「ご無沙汰しております、親方。こちらは東京から参りました中原蓮さん。過去の魂を言葉に刻む、若き書き手でございます」
「ほう、物書きさんかい。いい面構えをしてる。土でも触っていくかい?」
親方は白髪交じりの頭を掻きながら、蓮を土間へと招き入れた。
工房の棚には、焼き上がったばかりの無数の茶碗や湯呑みが並んでいた。
有田焼のような華やかな絵付けも、備前焼のような鋭い緋襷もない。
そこにあるのは、どこかポッテリと丸みを帯びた、淡い枇杷色や乳白色の素朴な器たちだった。釉薬の表面には、まるで氷のひび割れのような微細な無数の筋――貫入が走っている。
「……とても、柔らかいですね」
蓮が思わず呟くと、親方は嬉しそうに頷いた。
「そうさ。萩焼の命は、この『土』と『柔らかさ』にある。うちで使うのは、防府の『大道土』や『見島土』という、砂粒が多くて粘り気の少ない粗い土だ。土そのものが空気をたっぷり抱き込んでいるから、焼き上がっても保温性が高く、手で持った時にふんわりと温かいんだ」
親方は、使い込まれた一つの抹茶茶碗を取り出し、蓮の手のひらに載せた。
ずっしりとした重み。だが、手のひらを包み込むような優しさと、ざらりとした土の確かな質感が直に伝わってくる。
高台の削り出しには、意図的に切り込みが入れられた『割高台』の意匠。
そして何より、茶碗の内側と外側で、釉薬の色合いが複雑に深まっていた。
枇杷色の肌の奥に、仄かな紫や鈍い銀色が滲み出し、まるで朝霧の立ち込める山肌のような幽玄な気品を放っている。
「親方、この茶碗……棚にある新しいものと、全然色が違いますね?」
「よく気づいたな。それが萩焼の最大の魅力――『萩の七化け(ななばけ)』だ」
「七化け……?」
「ああ。萩焼は、土が粗くて焼きが柔らかい。だから、釉薬の表面に入った貫入から、お茶やお酒が少しずつ器の素地に染み込んでいくんだ。十年、二十年と使い込むうちに、茶渋が土と釉薬の中で熟成され、器の色合いが七転び八起きのように、幽玄に、渋く、深く変わっていくのさ」
親方は、皺の刻まれた逞しい手で茶碗を撫でた。
「萩焼はな、窯から出した時が完成じゃないんだよ」
「え……?」
「窯出しの時は、まだ赤ん坊だ。それを持ち帰った人が、朝にお茶を点て、夜にお湯を注ぎ、手のひらで包んで愛でる。使う人の日々の暮らしと時間が重なって、十年、五十年、百年の月日をかけて、初めて『本物の萩焼』として完成するんだ」
使う人の暮らしと時間が重なって、初めて完成する――。
その言葉が、蓮の胸のど真ん中を撃ち抜いた。
「……小説も、同じなのかもしれない」
蓮は、茶碗を見つめたまま呟いた。
「作家が原稿用紙に最後のピリオドを打った瞬間は、まだ完成じゃない。それを本屋で手にした読者が、電車の中でページをめくり、夜のベッドサイドで涙を流し、自分の人生と重ね合わせてくれた時……その読者の心の中で、初めてその物語は完成するんだ」
「その通りだ!」
親方が豪快に笑い、蓮の肩をバンと叩いた。
「いいことを言うじゃねえか、兄ちゃん! 作り手が『俺の作品を見ろ!』と力んで作った器なんざ、重くて使いにくくて仕方ねえ。余白を残すんだよ。使う人が自分の心を注ぎ込めるだけの、大らかで温かい余白をな。……お前の文章も、きっとそうあるべきなんだろ?」
「はい……! はい!」
蓮の目から、曇りが完全に消え去っていた。
自分はこれまで、「完璧な文章」「誰も文句のつけられない名文」を作ろうと必死になり、読者の入る余白を完全に削ぎ落としていたのだ。
粗い土でいい。泥臭くていい。
そこに誠実な魂と、受け取る人への愛があれば、読者の人生とともに、物語は幾千もの色へと「化けて」いくのだ。
「ふふ、素敵な問答でしたね」
はなしが、真鍮の万年筆を嬉しそうに回しながら微笑んだ。
「土が人を温め、人が器を育てる。萩の町には、そんな悠久の時間が流れています。……さて、蓮さん。器の深さを知ったあなたに、最後にお見せしたいものがあります」
「最後に見せたいもの?」
「ええ。萩博物館の資料室へ参りましょう。百五十年の時を超えて、あなたの曾祖父・源作さんが待っていますよ」
親方に深く一礼して工房を後にした二人は、萩の城下町の中心へと急いだ。
物語のすべての糸が、一つの結び目へと収束しようとしていた。




