第078話:白壁と夏みかん、松下村塾の小さな講義室
仙崎を後にした『○○のはなし』は、阿武川が日本海へと注ぐ三角州の町――東萩駅へと滑り込んだ。
改札を出ると、そこは白壁の土塀と武家屋敷が立ち並ぶ、まさに「生きた歴史の博物館」だった。
城下町の路地を歩くと、なまこ壁と重厚な長屋門が連なり、土塀の白壁の上から、鮮やかな橙色をした丸い夏みかんがたわわに実って顔を覗かせている。
甘酸っぱい柑橘の清々しい香りが、歴史の重みを感じさせる土壁の匂いと混じり合い、春の風に乗って鼻腔をくすぐった。
「明治維新の後、職を失った士族たちを救うため、屋敷の庭に植えられたのがこの夏みかんでございます」
はなしは、矢絣のリボンを揺らしながら、歴史の散歩道を案内した。
「刀を捨てた武士たちが、生きるために鍬を握り、果樹を育てた。ここ萩には、戦いだけでなく、敗れ去った者たちが命を繋いだ再生の記憶も刻まれているのです」
松陰神社の境内。
老松が青空に向かって枝を広げる静寂の中に、簡素な木造瓦葺きの平屋が佇んでいた。
――松下村塾。
幕末、わずか三十歳で刑場の露と消えた不世出の教育者・吉田松陰が主宰した私塾である。
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋――明治維新の原動力となり、日本の近代化を牽引した無数の若者たちが、この場所から巣立っていった。
蓮は、その建物の前に立ち尽くした。
「……これが、松下村塾なのか……?」
想像していたよりも、遥かに小さかった。
講義室は、わずか八畳。
畳は擦り切れ、天井は低く、壁には簡素な掛け軸が一幅掛けられているだけ。
現代の大学の講堂はおろか、小学校の教室よりも狭い。
この手の届くような小さな空間で、あの日本の歴史を根底から覆した若者たちが膝を突き合わせ、夜を徹して熱論を交わしていたのだ。
「驚かれましたか?」
はなしが、縁側にそっと手を触れながら言った。
「身分も家柄も関係なく、志ある若者なら誰でも受け入れられました。松陰先生は、教壇から一方的に知識を教え込むようなことはなさらない。『君は何を思い、どう生きたいのか』と、一人ひとりの魂に問いかけ、ともに学ばれたのです」
講義室の柱に刻まれた、有名な言葉。
『至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり』
孟子の言葉を引用した、松陰の終生の信条。
蓮はその文字を見つめながら、息を呑んだ。
「至誠……。偽りのない、極限の誠実さ」
「ええ。打算や計算、名誉欲や自己保身をすべて捨て去り、ただ純粋な『誠』をもって事に当たれば、人の心を動かせないことなど絶対にない。……松陰先生は、その言葉を自らの命をもって証明されました」
はなしの真鍮フレームの眼鏡に、木漏れ日がきらめく。
「蓮さん。この旅で、あなたは多くのものに出会ってきましたね。川棚の瓦そば、角島の蒼穹、阿川の暗闇で船を直した源作さんの記録、仙崎のみすゞのまなざし……。越前の地で、ある鍛冶職人が言った言葉を私は聞き及んでいます。『魂のフルスイングをしなければ、人の心には届かない』と。この松下村塾の『至誠』も、まさに同じ魂の叫びです」
「越前の……魂のフルスイング」
蓮の全身に、鳥肌が立った。
北陸の雪深い町で鋼を叩く職人も、この西の果ての小さな村塾で命を燃やした若者たちも、根底にある熱量は同じなのだ。
――己のすべてを賭けて、目の前のものに魂を注ぎ込むこと。
蓮は、八畳の講義室の前に両膝をついた。
冷たい板敷きに正座し、畳の向こうの空間を見つめた。
風が吹き抜けるたびに、畳と古い杉の木の香りが立ち上る。
目を閉じると、そこに十代、二十代の若者たちの息遣いが聞こえてくるようだった。
貧しい着物をまとい、目をギラギラと輝かせながら、国を想い、民を想い、未来を語り合っていた若者たち。
彼らは誰一人として、「後世の教科書に載りたい」などと思ってはいなかった。
ただ、この愛する日本を、そこに生きる人々を、外国の植民地にさせないために――自らの命を燃やし尽くそうとしていたのだ。
「俺は……恥ずかしい」
蓮の口から、掠れた声が漏れた。
「俺は、小説を書きながら、いつも『どう見られるか』ばかり気にしていた。文学賞の審査員にウケるか、編集者に褒められるか、売れるか売れないか……。そんな浅ましい計算ばかりしていたんだ。『至誠』なんて、何一つなかった」
ポタ、ポタと、板敷きに涙が落ちた。
「曾祖父の源作は、暗闇の中で手のひらを血まみれにして船を直した。松陰先生や塾生たちは、首を刎ねられることを恐れずに志を貫いた。……それに比べて、俺は何だ。たった一度の落選で絶望し、書いた原稿を海に捨てて、悲劇の主人公ぶっていただけじゃないか……!」
「蓮さん」
はなしが、そっと蓮の肩に手を置いた。
その手の温もりが、蓮の打ちひしがれた心を優しく包み込む。
「過ちに気づき、己の浅ましさに涙を流せること。それ自体が、あなたの『至誠』の始まりではありませんか」
「はなしさん……」
「小説とは、技術で書くものではありません。あなたの魂の誠実さ――至誠をもって、過去の人々の痛みに寄り添い、現代へと言葉を届ける祈りそのものです。……あなたの心には、もう松陰先生の炎が灯りました。消してはなりませんよ」
蓮は涙を拭い、力強く顔を上げた。
八畳の小さな講義室に、爽やかな春の青嵐が吹き抜けていく。
その風は、百五十年前と全く変わらない、熱く清らかな志の香りを運んでいた。
「さあ、次は萩の土に触れに行きましょう。四百年の歴史を誇る、あの名高き焼き物の窯元へ」
はなしの導きで、蓮は城下町の白壁通りを再び歩み始めた。
その背中は、下関の突堤にいた時とは見違えるほど、真っ直ぐに伸びていた。




