第077話:透き通る活イカ、青海島の荒磯
仙崎港の岸壁に面した、古き良き割烹旅館の暖簾をくぐると、いきなり磯の濃密な香りと水しぶきの音が耳朶を打った。
玄関を入ってすぐの土間には、日本海の清浄な海水を絶え間なく汲み上げる大きな円形生簀が据えられている。
その水底を覗き込んだ蓮は、思わず息を呑んだ。
「……透き通っている……! 魚眼鏡を通しているみたいだ」
生簀の中を、数匹のケンサキイカ――この地方で『活白イカ』と呼ばれる至宝が、ヒレを細やかに波打たせながら優雅に泳いでいた。
白濁した冷凍のイカとはまるで違う。水中に溶け込んでしまいそうなほど完全に透明で、光の加減によって体表の斑点がチカチカと虹色に明滅している。
「仙崎は、北長門の荒波と対馬暖流が交差するイカの絶好の漁場。一本釣りで釣り上げられた白イカは、極めて繊細で人の手の熱ですら弱ってしまうため、網を使わず、温度管理された水槽で生かしたまま港へと運ばれるのです」
はなしが、小上がりの座敷へ蓮を案内しながら嬉しそうに語る。
「命をそのままいただく贅沢。みすゞの詩を読んだ後だからこそ、この命のありがたみが骨身に沁みるはずですよ」
座敷の窓からは、湾の対岸にそびえる青海島の荒々しい断崖が望めた。
別名『海上アルプス』。日本海の猛烈な風波と冬の荒波によって削り取られた、無数の海食洞や洞門、天を突く石柱群。まさに大自然の彫刻刀が削り出した荒々しい岩肌が、青い海原の上に仁王立ちしている。
その絶景に見惚れていると、板前が大きな黒塗りの桶を運んできた。
「お待たせしました。仙崎の活白イカ、姿造りでございます」
ドサリ、と置かれたその器を見て、蓮は我が目を疑った。
「……動いてる!」
皿の上に盛り付けられたイカの胴体は、氷の板のように完全に透き通り、下のツマや大葉の緑色が鮮明に透けて見えていた。繊細な鹿の子の飾り包丁が入れられているが、目とゲソ(足)はまだ生きており、吸盤をピクピクと蠢かせ、触手を持ち上げて威嚇するように動いている。体表の赤褐色の色素胞が、まるで呼吸するように点滅を繰り返していた。
「さあ、一秒でも早く召し上がりなさい。活造りは、命の躍動そのものを味わう料理。時間が経てば、身が白く濁ってしまいます」
はなしに促され、蓮は震える手で箸を伸ばした。
透き通る身の切れ端をひとすくい持ち上げる。
刺身醤油に、添えられたおろし生姜を少し溶かし、サッとくぐらせて口の中へ放り込んだ。
「――ッッ!!」
噛んだ瞬間、パキンッ、と小気味よい音が頭蓋骨に響いた。
尋常ではない弾力。コリコリとした強烈な歯ごたえが歯を押し返し、噛み締めるごとに、冷涼な海のジュースが溢れ出してくる。
そして、二噛み、三噛みと咀嚼を続けるうちに、驚くべき変化が訪れた。
コリコリとした硬質さが、体温でふわりと解け、信じられないほどの濃密な「甘み」へと変わっていくのだ。ねっとりと舌に絡みつく、極上の糖度とアミノ酸の奔流。生姜醤油のキレが、その甘美さを極限まで引き立てる。
「な、なんだこれ……! 硬いのに、甘い……! 東京の寿司屋で食べていたイカとは、完全に別物だ!」
「ふふ、白イカの真骨頂は、この類まれな甘みと、活きているからこその鮮烈な食感の共存にあります」
はなしが、細身のガラス徳利から、冷え切った酒を蓮のお猪口へと注いだ。
「山口・萩の名酒『東洋美人』の純米吟醸でございます。合わせてごらんなさい」
蓮は両手でお猪口を持ち上げ、口に含んだ。
フルーティーで華やかなマスカットのような吟醸香が鼻腔を駆け抜け、その後に米のふくよかな旨味と、清らかな日本海の湧き水のような透明感のある酸味が喉を滑り落ちていく。
そこへ、再び活イカを運ぶ。
酒の甘みとイカの甘みが溶け合い、互いの旨味を何倍にも増幅させながら、後味を鮮やかに洗い流していく。
「美味い……! 身体中の細胞が、歓喜の悲鳴を上げているみたいだ……」
「まだ終わりませんよ。こちらをどうぞ」
続いて運ばれてきたのは、網の上でグツグツと泡を噴き上げる『サザエの壺焼き』だった。
青海島の荒磯で採れた巨大な天然サザエ。
殻の中に醤油と酒、出汁が注がれ、炭火の熱で煮えたぎっている。
磯の野趣あふれる香りと、焦げた醤油の香ばしさが部屋中に充満する。
竹串を差し入れ、螺旋状に身を引き抜く。
湯気を立てる熱々のサザエにかぶりつく。
ムチッとした弾力のある筋肉質の身。噛むとジュワリと濃厚な出汁が溢れ出す。
そして、奥の深緑色をした肝。
ほろ苦く、濃厚で、荒磯の波の記憶をそのまま凝縮したような深いコク。
すかさず『東洋美人』を煽る。
苦味と芳醇な酒の旨味が絡み合い、もはや言葉を失うほどの恍惚感が蓮を包み込んだ。
「この青海島の厳しい荒波を生き抜いたサザエだからこそ、これほど力強い筋肉と深い肝が育つのです」
はなしは、窓の外の荒磯を見つめながら語った。
「自然の過酷さも、人間の激動の歴史も、同じです。穏やかな海では、強い命は育ちません。激しい潮流に揉まれ、岩礁に打ち付けられてこそ、本物の強さと深みが宿るのです」
「激しい潮流に揉まれてこそ……」
蓮は、東洋美人の最後の一滴を飲み干した。
胸の奥で、カッカと熱い血潮が巡っている。
五年間、小説が書けずに苦しみ、挫折した時間。あれもまた、自分にとっての「荒磯」だったのではないか。
苦しんだからこそ、今、このイカの甘みも、サザエの苦味も、曾祖父の流した血の熱さも、これほどまでに胸に突き刺さるのだ。
「……はなしさん。残ったイカのゲソとエンペラ、どうするんですか?」
「ふふ、お楽しみはここからです。板前さんに頼んで、天ぷらにしていただきましょう」
数分後、揚げたての熱々で運ばれてきたゲソの天ぷら。
サクサクの軽い衣の中に、火を通すことでふっくらと柔らかく、信じられないほど甘みを増したイカの足。
塩を少しつけて頬張ると、生とはまた違う圧倒的なジューシーさが口いっぱいに広がった。
「生で命をいただき、火を通してその温もりを慈しむ。……これ以上のご馳走はありませんね」
「ああ……本当に美味かった。心も、身体も、完全に生き返ったよ」
蓮が深く頭を下げると、はなしは満足そうに微笑み、立ち上がった。
「さあ、いよいよ山陰の旅も佳境です。次は長州の心臓部――白壁と夏みかんが揺れる維新の城下町、萩へ参りましょう。松下村塾の若き志士たちが、あなたを待っています」
列車は再び汽笛を鳴らし、維新の風が吹き抜ける萩の町へと向かって走り出した。




