第076話:大漁の港、金子みすゞの優しきまなざし
山陰本線の長門市駅から枝分かれする、わずか一駅だけの短い盲腸線――仙崎支線。
のんびりと走る気動車に揺られ、終点の仙崎駅へと降り立った。
駅舎の改札を抜けると、白壁と木造格子戸の美しい街並みが、どこか懐かしい昭和初期の風情を湛えて佇んでいた。
仙崎。北長門海岸に面した天然の良港であり、古くから捕鯨とイワシ漁で栄えた港町。
そして何より、大正末期から昭和初期にかけて、彗星のように現れ、二十六歳の若さで散った幻の童謡詩人――金子みすゞの生まれ育った町である。
「ここ仙崎は、海からの恵みとともに、海で命を落とした無数の生きとし生けるものへの祈りが、今も息づく町でございます」
はなしは、仙崎のメインストリートである『みすゞ通り』を、革ブーツの音を静かに響かせながら歩いた。
通り沿いには、みすゞの生家跡である書店を復元した『金子みすゞ記念館』や、昔ながらの蒲鉾屋、干物屋が立ち並び、香ばしい焼き魚と甘いすり身の湯気が漂っている。
通りの一角にある石碑の前で、はなしが足を止めた。
そこには、みすゞの代表作の一つである『大漁』の詩が、素朴な筆文字で刻まれていた。
「……『大漁』」
蓮が呟くと、はなしは眼鏡をそっと外し、胸元に手を当てて、その詩を朗読し始めた。
「朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰮の/大漁だ。
浜はまつりの/ようだけど/海の中では/何万の/鰮のとむらい/するだろう」
澄んだ、祈りのような声が、通りの静けさに染み渡っていく。
蓮の背筋に、ゾクリとした震えが走った。
「浜の人々が、大漁を喜んで祭り騒ぎをしているその瞬間に……みすゞは、海の中で命を奪われた何万匹ものイワシたちの葬式を想像した。……こんな視点、普通は思いつかない」
「ええ。人間中心の視点だけでは、決して見えない風景です」
はなしが、遠い海を見つめながら応えた。
「大正という、近代化と軍国主義の足音が近づく荒波の時代にあって、彼女のまなざしは常に、踏みつけられ、忘れ去られ、誰からも顧みられない『小さきものたち』の上にありました。『みんなちがって、みんないい』という言葉も、単なる宥和ではありません。存在するものすべてに固有の尊厳があるという、極めて鋭く、深い愛の哲学なのです」
「小さきものたち……」
「蓮さん。歴史を記録する者――小説家の役割とは、何でしょうか?」
はなしが、まっすぐに蓮を見つめた。
その双眸は、どこまでも澄み渡り、蓮の心の奥底を映し出す鏡のようだった。
「勝者や英雄の輝かしい功績を讃えることは、国家の記録係に任せておけばよいのです。けれど、文学は違います。勝者の足元で踏み躙られた敗者、歴史の記述から一行で切り捨てられた民衆、名前すら残せなかった無数の兵士や職人たち……。光が強ければ強いほど、その足元には濃い影が落ちる。その影の中にうずくまる名もなき命に、言葉という光を当てて温めること。それこそが、文学という営みの、真の使命ではないでしょうか」
はなしの言葉が、雷鳴のように蓮の胸に落ちた。
――影の中にうずくまる名もなき命に、言葉という光を当てること。
かつて自分が抱いていた情熱が、鮮やかによみがえってきた。
蓮がなぜ、曾祖父・源作の小説を書こうとしたのか。
坂本龍馬や高杉晋作、西郷隆盛といった英雄たちの物語は、すでに星の数ほど書かれている。だが、彼らが乗った船を造り、彼らが食べた米を運び、彼らが掲げた理想の影で泥にまみれて倒れていった無名の足軽たちの叫びは、どこにも書かれていない。
それを書き残したかったのだ。
自分と同じように、何者にもなれず、それでも必死に時代を生き抜いた先祖たちの命を、この世に繋ぎ止めたかったのだ。
「俺は……みすゞのように、優しい目をしていなかった」
蓮はぎゅっと拳を握りしめた。
「ただ『すごい小説を書いて賞を取りたい』『人に認められたい』という自分のエゴばかりを肥大化させていた。だから、文章から匂いが消えたんだ。対象への愛も、名もなき人々への敬意も忘れて、ただ技巧ばかりを気にしていたから……!」
「気づいたのなら、もう大丈夫です」
はなしは、優しく微笑んだ。
「みすゞの詩が百年経った今も人々の心を打つのは、彼女の言葉がどこまでも『他者の命』へと開かれていたからです。あなたの心も今、過去の無数の魂へと開かれました。……さあ、次は港へ行きましょう。海からの命の恵みを、仙崎の海が誇る最高の形でいただきに参りましょう!」
「仙崎の、命の恵み?」
「ふふ、文学の思索で頭を使った後は、仙崎の至宝――透き通る海の結晶を味わう時間です。胃袋を満たし、全身の血を巡らせてこそ、言葉は本当の熱を帯びるのですから」
はなしが弾むような足取りで歩き出す。
潮風の向こうから、活気に満ちた港のざわめきが聞こえてきていた。




