第075話:阿川の入江、曾祖父の古い日記
特牛を出た『○○のはなし』は、海岸線の崖にへばりつくような急曲線を、車体をきしませながら慎重に辿っていった。
車窓の下には、日本海の荒波が削り出した無数の奇岩と岩礁が連なり、白い飛沫が幾筋ものカーテンのように舞い上がっている。角島の穏やかなエメラルドグリーンとは打って変わり、自然の厳しさを剥き出しにした長門の海の横顔だった。
「次は、阿川。阿川でございます」
山あいに抱かれた静かな入江に位置する阿川駅。
古びた跨線橋を渡り、駅舎を出ると、そこは時間が昭和、あるいは明治のまま止まったかのような、ひなびた小さな漁村の佇まいを見せていた。
瓦屋根の民家が肩を寄せ合うように坂道に並び、狭い路地の隙間から、入江の凪いだ海面が鏡のように光っている。
「阿川の港は、外海の荒波を遮る天然の良港。かつては北前船の風待ち港として、そして幕末には……表沙汰にはできない船たちの、隠れ家として使われていました」
はなしが、海松色の袴の裾を気にしながら、古い石畳の坂道を下っていく。
足元からは、干した海苔と潮水、そして古い木造船のタールと松脂の匂いが微かに漂ってきた。
港の奥深く、断崖の影になった船溜まり。
現代のFRP(強化プラスチック)製の漁船が数隻揺れている脇に、朽ちかけた古い木造船の竜骨のような廃材が、干潮の砂浜に突き刺さっていた。
蓮は、その木片の前で足を止めた。
潮水を吸い、フジツボがびっしりとこびりついた赤松の巨木。幾重にも鑿で削られた痕跡が、百数十年を経た今も微かに残っている。
「ここだ……」
蓮はポケットから、曾祖父・源作の日記を取り出し、阿川の記述がある頁を開いた。
『元治元年甲子八月、阿川ノ入江ニテ夜陰ニ紛レ、軍艦丙辰丸ノ船底ヲ張替フ。幕府ノ目ヲ盗ミ、提灯ノ灯モ許サレズ。手探リニテノミヲ振リ、松脂ヲ塗ル。手ノ皮破レテ血ガ滴レド、船ヲ直サネバ長州ノ息ハ止マル。夜明ケト共ニ、船ハ風ヲ孕ミテ萩ヘ向ケ走ル。胸ノスクト思ヒキ』
「元治元年八月といえば……」
蓮は呻くように呟いた。
「禁門の変の直後だ。長州藩は朝敵となり、四国連合艦隊によって下関を砲撃され、まさに存亡の危機に立たされていた……!」
「その通りです、蓮さん」
はなしが静かに寄り添い、眼鏡を押し上げた。
「藩の正規の造船所であった萩の恵比須ヶ鼻や長門の港は、幕府や外国船の警戒網に晒されていました。だからこそ、こうした阿川のような人目につかない入江で、傷ついた船を秘密裏に修理し、物資や武器を運び続けなければならなかったのです」
「提灯の明かりも許されず、手探りで……」
蓮は、砂浜にしゃがみ込み、赤松の廃材にそっと手を触れた。
ざらりとした冷たい感触。
だが、目を閉じると、そこに百五十年前の闇夜の熱気が立ち上ってくるようだった。
――月明かりさえ雲に遮られた漆黒の海。
冷たい潮水に腰まで浸かりながら、重い木槌を振るう男たちの荒い息遣い。
提灯を点ければ敵に見つかり、一族郎党が処刑される。暗闇の中、指先の感覚だけを頼りに、船板の狂いを削り、隙間に松脂を塗り込める。
手のひらの皮が裂け、塩水が染みて焼けるように痛む。それでも男たちは手を止めない。
自分たちがこの船を直さなければ、国が滅びる。仲間たちが死ぬ。
誰一人として、弱音を吐く者はいなかった。
「曾祖父は……名声のために船を作っていたんじゃない」
蓮の目頭が熱くなった。
「歴史の教科書に名前が残るかどうかなんて、これっぽっちも考えていなかった。ただ、目の前の船を直し、仲間を海へ送り出すために、暗闇の中で血を流していたんだ……」
「はい。そして、その源作さんの手のひらの傷と、流した汗の結晶が、船を動かし、やがて時代そのものを動かす大きなうねりとなったのです」
はなしが、小脇に抱えた手帖を胸に押し当てた。
「蓮さん。あなたが書こうとしていた小説『維新の舳先』。……あなたはそこに、何を込めたかったのですか?」
「俺は……」
蓮は引き裂かれた自らの原稿を思い返した。
「俺は、偉人たちの華麗な策謀や、カッコいい演説ばかりを追っていた。でも、本当に書きたかったのは……こんな暗闇の中で、誰にも知られずに命を削って時代を支えた、名もなき人間たちの泥臭い祈りだったはずなんだ。曾祖父のように、名も残さず、ただ必死に生きた市井の人々の魂を、現代の言葉で救い上げたかったんだ……!」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥底を塞いでいた分厚い氷が、ピシリと音を立てて砕け散った。
『あなたの文章は綺麗ですが、匂いがない。泥も、血の熱さも感じられない』
編集者の言葉が再び脳裏をよぎる。
今なら分かる。なぜ自分の文章がダメだったのか。
自分は「無名の人々を描きたい」と言いながら、彼らが吸った潮の匂いも、暗闇の恐怖も、手のひらに食い込む鑿の痛みも、何一つ想像できていなかったのだ。安全な部屋の机の上で、薄っぺらな同情を捏ね繰り回していただけだった。
「気づきましたね」
はなしが、聖母のように柔らかな笑みを浮かべた。
「その気づきこそが、旅の収穫です。……さあ、立ってください。阿川の海が、あなたに先祖の汗の匂いを教えてくれました。次は、仙崎へ向かいましょう。長門が生んだ、もっとも優しく、もっとも小さき命に寄り添った詩人の町へ」
蓮は立ち上がり、曾祖父の船板に深く頭を下げた。
指先には、確かな木の温もりと、塩の香りが染み付いていた。
もう、手は震えていなかった。山陰本線の鉄路は、彼をさらなる魂の深淵へと導いていく。




