第074話:特牛の潮風、角島大橋の蒼穹
山陰本線の列車は、朝の光とともに日本海沿岸の丘陵地帯を縫うように北上していた。
車窓の左手に広がるのは、見渡す限りの海原。だが、冬の日本海特有の重く鈍色に澱んだ波浪ではない。昇り始めた朝日を浴びて、波頭が銀鱗のようにきらめいている。
「次は、特牛。特牛でございます」
はなしの静かな車内アナウンスに、蓮は思わず聞き返した。
「こっとい……? 漢字で『特牛』と書いて、そう読むのかい?」
「はい。全国でも有数の難読駅名として知られております。古くは牝牛のいる岬、あるいは日本海の波が激しく打ち寄せる『琴の江』が転じたとも言われています。……この駅の先には、日本海が隠し持つ、もっとも神聖で鮮烈な青が待っていますよ」
木造の小さな平屋駅舎。静まり返った無人駅の改札を抜けると、ひんやりとした潮風が蓮の髪を揺らした。
川棚の温泉街の甘い湯気とは異なる、塩分と海藻の引き締まった香気。
はなしの先導で岬の高台へと向かう小道を歩くこと十数分。
木々のトンネルを抜けた瞬間、蓮の視界は息を呑むような圧倒的な光景によって奪われた。
「……っ! なんだ、これは……」
声が震えた。
目の前に広がっていたのは、蓮がこれまで知っていた「日本海」のイメージを根本から覆す世界だった。
眼下に広がる海は、濃紺ではない。
波打ち際の白砂から沖合に向かって、淡いミントグリーン、眩しいエメラルドグリーン、そして息を呑むような深いコバルトブルーへと、幾重にもグラデーションを描きながら溶け合っている。
海底の白い砂地と澄み渡る海水が太陽の光を浴び、まるで巨大な宝石のように底光りしていた。
そして、その奇跡のような青い海を真っ二つに切り裂くように、一本の純白の橋が架かっている。
――角島大橋。
ゆるやかなカーブを描きながら、海の上を飛ぶように鳩島を掠め、遥か沖合の角島へと伸びる全長千七百八十メートルの巨大な橋梁。
青空の蒼穹と、エメラルドの海、そして白き橋。
余計な色彩の一切を削ぎ落とした、神が創りたもうたような三色のパノラマが、蓮の網膜を灼くように焼き付けた。
「美しいでしょう……」
はなしが、袴の裾を海風に遊ばせながら、欄干のそばに佇んだ。
真鍮の眼鏡に、眩いばかりの角島の海が映り込んでいる。
「本州の北西端、響灘と日本海が交わるこの海域は、砂の粒が細かく白い石灰質で満たされています。だからこそ、太陽の光が乱反射し、南国の楽園にも劣らない、この世ならぬ青を生み出すのです」
「ああ……。東京で暮らしていた頃は、日本海といえば荒波と雪、暗い空ばかりを想像していた。こんなにも透き通り、こんなにも天を映す海があったなんて……」
蓮は欄干に両手を置き、どこまでも広がる水平線を見つめた。
胸の奥で、鉛のように固まっていた感情が、澄み切った潮風によって洗い流されていくような感覚を覚える。
「蓮さん。この海を見つめていたのは、現代の私たちだけではありません」
はなしが静かに語り始めた。文学少女の瞳に、遠い過去を見つめるような情熱の炎が宿る。
「江戸の昔、鎖国の世にあっても、この長州の海は決して閉ざされてはいませんでした。北前船が蝦夷の海産物を運び、西廻り航路の船乗りたちがこの響灘を駆け抜けました。そして幕末――長州藩の志士や船乗りたちは、この海の向こうにある異国を、世界を見つめていたのです」
「世界の……海」
「ええ。多くの人々にとって、海は『ここから先へは行けない』という隔絶の壁でした。しかし、この地に生きた先人たちにとっては違った。海こそが、外の世界へと漕ぎ出すための、果てしなき自由な街道だったのです」
はなしの言葉が、蓮の内ポケットにある曾祖父・源作の日記と重なり合う。
蓮はポケットから、黄ばんだ和紙の綴りを取り出した。
表紙には、掠れた墨文字で『航泊控』と書かれている。
恐る恐るページをめくると、毛筆で書かれた荒々しい筆跡が目に飛び込んできた。
『文久三年、特牛沖合ニテ異国船ノ影ヲ見ル。煙ヲ吐キテ走ル黒船ノ巨大サ、山ノ如シ。我ラガ和船ハ小笹ノ葉ニ似タリ。サレド恐ルルニ足ラズ。櫂ヲ取リ、潮ヲ読メバ、海ハ必ズ道ヲ開ク』
「曾祖父は……この海で、黒船を見たんだ」
蓮の指が、和紙の文字をなぞった。
「小さな和船の上で、蒸気船を見上げながら……それでも『恐るるに足らず、海は必ず道を開く』と書いている。……なんて奴だ。足軽の分際で、世界の怪物に喧嘩を売るような目をしていたのか」
「ふふ。足軽だからこそ、ですよ」
はなしが柔らかく微笑んだ。
「地位や名誉を持つ者は、失うものを恐れて守りに入ります。けれど、源作さんのような無名の職人や水夫たちは、自らの腕一本、櫂一本で明日を生き抜くしかなかった。だからこそ、巨大な時代の波を前にしても、決して屈しなかったのです。『道は己の手で切り拓くものだ』と」
蓮の喉が、熱く引き結ばれた。
自分はどうだっただろうか。
編集者に否定されたくらいで、才能がないと泣き言を言い、五年間の努力を紙屑だと罵って海に捨てようとした。
失うものなど何一つないはずの自分が、誰よりも保身に怯え、自尊心を守るために筆を折ろうとしていたのではないか。
「海は……道を開くか」
蓮は水平線の彼方を睨み据えた。
角島大橋を渡る白い風が、轟々と耳元で鳴っている。
エメラルドグリーンの波頭が、まるで「お前はどう生きるのだ」と問いかけてくるようだった。
「はなしさん。曾祖父の日記には、この先……阿川という場所のことが書いてあるんだ」
「阿川……。小さな入江の漁村ですね」
「ああ。『阿川の船溜まりにて、夜陰に紛れて密船の底を張る』と。曾祖父がどんな仕事をしていたのか、もっと知りたい。その場所へ連れて行ってくれないか」
「もちろんでございます」
はなしは嬉しそうに頷き、矢絣のリボンを揺らした。
「物語の頁が、音を立ててめくられ始めましたね。参りましょう、阿川の入江へ。名もなき船大工たちの、汗と鉄の匂いが残る場所へ!」
角島の眩い蒼穹を背に、二人は再び、山陰の鉄路へと歩みを進めた。




