第073話:熱々の瓦、川棚温泉の茶そば
山陰本線のディーゼルカー『○○のはなし』は、夜の帳が下りた線路を西から北へと滑るように進んでいた。
車内は、大正から昭和初期のサロンを思わせる木目調の落ち着いた設えで、窓枠にはアール・デコ調のステンドグラスが柔らかな光を投げかけている。
ボックス席に腰掛けた蓮は、まだ夢見心地の中にいた。
手元には、はなしが淹れてくれた温かい緑茶。湯気とともに漂う茶葉の香りが、凍てついていた胸の芯をじんわりと解きほぐしていく。
「……落ち着きましたか、蓮さん」
向かいの座席に袴の裾を整えて座ったはなしが、小脇の手帖を開きながら静かに尋ねてきた。
「ええ……。温かいお茶、ありがとうございます。まさか、下関にあんな列車が待っていたなんて、今でも信じられません」
「ふふ、風の切符を持つ旅人には、時折こうした小さな奇跡が訪れるのです。さて、最初の寄り道駅が近づいてまいりましたよ」
ガタゴトと車輪がジョイントを越える規則正しい音が響き、やがて列車は緩やかに減速した。
車内アナウンスの代わりに、はなしが凛とした美声で告げる。
「次は、川棚温泉。山頭火も愛した古きいで湯の里であり、そして――飢えた兵士たちの知恵から生まれた、熱き物語の宿る町でございます」
列車を降りると、そこには山あいに抱かれた静かな温泉街が広がっていた。
冷たい夜気の中に、微かに硫黄と湯の花の香りが混じっている。
はなしの案内で、温泉街の石畳を歩くこと数分。軒先に掛けられた藍色の暖簾から、香ばしい醤油と出汁、そして何かをジュウジュウと焼き上げる芳醇な匂いが漂ってきた。
「さあ、まずは腹ごしらえです。頭でばかり考えていては、良い物語は紡げません。五感を呼び覚ますには、その土地の炎を胃袋に収めるのが一番ですよ」
「炎を胃袋に……?」
引き戸を開けて案内された小上がりの席。
座って待つこと十数分、厨房の奥から「ジュウゥゥゥーッ!」という凄まじい鉄板焼きのような音とともに、店員が大きな盆を運んできた。
蓮は思わず目を見張った。
「な……瓦!?」
テーブルの上にドン、と置かれたのは、本物の屋根瓦だった。
漆黒の日本瓦。しかも、直火で熱せられており、瓦の表面から立ち上る熱気で陽炎が揺らめいている。
その熱々の瓦の上に、山盛りにされた鮮やかな緑色の麺が、香ばしい音を立てながら躍っていた。
「これこそが、川棚温泉の名物『瓦そば』でございます」
はなしが眼鏡の奥の瞳を輝かせ、誇らしげに万年筆の尻で瓦を指した。
「明治十年、西南の役。熊本城を囲んだ西郷軍の薩摩兵たちは、野戦の合間、陣立ての焼け跡に残された屋根瓦を使い、野草や肉を焼いて飢えを凌いだと伝えられています。その極限の兵士たちの知恵と逞しさを、昭和の料理人が甦らせたのが、この瓦そばの起源なのです」
「西南の役の、兵士たちの知恵……」
歴史小説家を志す蓮にとって、西南戦争は幾度となく文献で読み漁った歴史の転換点だった。だが、そこで戦った無名の兵士たちが何を食し、どうやってその命を繋いでいたのか――そんな泥臭い現実に、蓮は一度も想いを馳せたことがなかった。
「講釈は後です。熱いうちに召し上がりなさい。瓦そばは、時間との勝負ですから」
熱せられた瓦の上には、宇治抹茶を練り込んだ美しい緑色の茶そばがびっしりと敷き詰められている。
その上を覆うのは、甘辛く濃い口に煮込まれた牛肉、ふんわりと黄金色に焼き上げられた細切りの錦糸卵、たっぷりの刻み海苔と、小口切りの瑞々しい青ネギ。
頂点には、丸ごとスライスされた鮮やかな黄色いレモンと、真っ赤なもみじおろしが鎮座している。
ジュウジュウと音を立てる瓦から立ち上る湯気。
甘辛い牛肉の脂が熱い瓦に触れて焦げる匂い、煎茶のような爽やかな茶そばの青い香り、そして出汁の甘い香りが渾然一体となって、蓮の鼻腔を猛烈に刺激した。
胃袋が激しく鳴動する。
「つゆに、レモンともみじおろしを落としてくださいね。それが川棚の流儀です」
はなしに教えられるまま、蓮は添えられた温かい特製つゆの器に、レモンスライスを浸し、もみじおろしを溶き入れた。
割り箸を割り、熱々の瓦から茶そばと牛肉、錦糸卵をひとすくい持ち上げる。
ジュッ、とつゆにくぐらせ、一気に口の中へ運んだ。
「――っ!!」
刹那、蓮の口の中で、幾重もの味覚の波が爆発した。
まず飛び込んできたのは、茶そばの豊かな風味。熱を帯びることで抹茶の香りが極限まで引き出されており、鼻へと抜ける清涼感がたまらない。
そこに絡みつく、甘辛い牛肉の濃厚な旨味と脂のコク。
そして、つゆに溶けたレモンの爽やかな酸味と、もみじおろしのピリッとした辛味が、脂っこさを一瞬で見事に洗い流し、極上の後味へと昇華させている。
「う、美味い……! なんだこれ、茶そばの香りと肉の旨味が、レモンでこんなにも鮮やかに引き立つなんて……!」
「ふふ、驚くのはまだ早いですよ。下の方をごらんなさい」
はなしが促す。
蓮が箸で麺の下層を探ると、そこには瓦の熱でこんがりとキツネ色に焼き固められた、香ばしい「おこげ」ができていた。
バリッ、と心地よい音を立てて剥がし、つゆに浸して噛み締める。
上の麺のもちもちとした喉越しとは対照的な、カリカリとした小気味よいクリスピーな食感。
焦げた茶葉の野趣あふれる苦味と香ばしさが、噛めば噛むほど口いっぱいに広がる。
「このカリカリの部分……最高だ。同じ一杯の蕎麦なのに、上と下で食感も風味もまるで違う!」
「生き延びるための野戦の瓦。それが時を経て、こんなにも人を喜ばせる温かな料理へと姿を変えたのです。……過酷な歴史の底にも、生き抜こうとした人間の逞しい知恵と温もりが必ずある。そう思いませんか?」
はなしの言葉が、蓮の胸の奥深くに染み渡っていった。
自分はこれまで、歴史小説を書くにあたって、勝敗や政治の駆け引き、英雄たちの華々しい名乗りばかりを追っていた。
だが、その足元で瓦を拾い、泥まみれになりながら飯を食い、明日の命を繋いだ無数の名もなき人間たちがいたのだ。
彼らの喉を潤した出汁の味、焦げた茶の苦味、腹を満たした瞬間の安堵の息息――それこそが、歴史の真実の重みではないのか。
「……俺は、何も知らなかったんだ」
蓮は無我夢中で箸を動かし、熱々の瓦そばを平らげた。
最後の一本まで平らげた時、全身の毛穴から心地よい汗が吹き出し、冷え切っていた胃の腑から、熱い生命の炎が燃え上がってくるのを感じた。
「ごちそうさまでした。……美味しかった。本当に」
「良いお顔になりましたね、蓮さん。瞳に光が戻りました」
はなしは嬉しそうに微笑むと、真鍮の万年筆を取り出し、手帖の新しい頁にサラサラと文字を走らせた。
「さあ、お腹が満たされたら、次は日本海が魅せる奇跡の青を見に行きましょう。あなたの曾祖父・源作さんが見つめ続けた、外の世界へと続く海の青を」
夜が明けゆく気配を孕みながら、物語を乗せた列車は、さらに北の海へと針路を取った。




