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第072話:波門の突堤、破られた原稿用紙

本州の西の果て、下関。

 本州と九州を隔てる関門海峡は、まるで巨大な大河のように獰猛な潮流をうねらせていた。

 早鞆の瀬戸と呼ばれるその海峡の最狭部では、一日に四度、潮の満ち引きによって激流が向きを変え、逆巻く渦潮が轟音を立てている。行き交う外航の巨大貨物船やタンカーが、重く太い汽笛を鳴らして夕暮れの海面を震わせていた。

 

 唐戸桟橋の冷え切ったコンクリート突堤。

 冬から春へと移ろう風は、まだ刃物のように鋭く、蓮の頬を容赦なく打ち据えていた。

 中原蓮(なかはら れん)、三十歳。

 くたびれたトレンチコートの襟を立てた男の足元には、茶封筒から取り出された分厚い原稿用紙の束が置かれていた。四百字詰め原稿用紙で二百枚。タイトルは『維新の舳先』。

 

「……ただの、紙屑だ」

 

 乾いた声が、潮騒の中に溶けて消えた。

 蓮は都内の大型書店で契約社員として働きながら、夜な夜な歴史小説を書き続けてきた。二十五歳の時、地方の公募文学賞で佳作に入選し、「若き新鋭の登場」とわずかばかりの脚光を浴びた。だが、その後の道は暗澹たるものだった。

 持ち込んだプロットは編集者に一蹴され、改稿を重ねても「熱量が足りない」「史実のダイジェストに過ぎない」「登場人物の血が通っていない」となじられた。

 五年。二十代のすべてを、机の前の万年筆と原稿用紙に捧げた。友人と遊ぶことも、恋人とデートすることもなく、ただ古文書と格闘し、過去の亡霊たちと対話し続けた。

 その結果が、先週届いた大手出版社の文芸誌編集部からの、冷徹な落選通知だった。

 

『中原さん、もう歴史ものは潮時じゃないですか。あなたの文章は綺麗ですが、匂いがない。生きている人間の汗も、泥も、血の熱さも感じられないんです』

 

 匂いがない。

 泥も、血の熱さもない。

 その言葉は、蓮の心臓を的確に貫いた。

 自分は所詮、エアコンの効いた部屋で過去の偉人たちの記録をなぞり、きれいな言葉で飾り立てていただけの、口先だけの道化に過ぎなかったのだ。

 

「もう、書けないよ……」

 

 蓮は震える指先で、原稿用紙の最初の十数枚を掴んだ。

 びっしりと黒インクで埋め尽くされた文字。徹夜で書き上げ、血の滲むような思いで推敲したはずの文章が、今は吐き気を催すほどの醜いゴミに見えた。

 ビリッ、と無慈悲な音が響いた。

 自らの手で、我が子のように慈しんできた原稿を真っ二つに引き裂く。

 千切れた紙片が、関門の強い潮風に煽られて宙に舞い、夕闇が迫る黒い海面へと落ちていく。

 

「何が小説家だ。何が志だ……! 全部、無駄だったんだ!」

 

 残りの束をまとめて海へと放り投げようと、蓮が両腕を振り上げた、その瞬間だった。

 

「おやめなさい」

 

 凛とした、しかしどこか古風な温もりを帯びた少女の声が、激しい海風を裂いて響いた。

 

 え――?

 蓮が息を呑んで振り返ると、そこには信じられない光景があった。

 突堤の付け根、本来ならば車も立ち入れない波止場の敷石の上に、一両の気動車が音もなく佇んでいたのだ。

 深みのある和の藍色と、やわらかな白を基調とした車体。大正から昭和初期の洋館を思わせる、丸みを帯びた優美な窓枠とクラシカルな意匠。

 そして、その車両のステップから、一人の少女が軽やかに波止場へと降り立ってきた。

 

 少女の装いは、まるで大正ロマンの絵葉書から抜け出してきたかのようだった。

 深みのある藍色の絣(かすり)の着物に、落ち着いた海松色(みるいろ)の袴。足元には艶やかに磨き上げられた黒い革の編み上げブーツ。

 艶やかな黒髪は清楚なボブカットに切り揃えられ、後頭部には大きな矢絣(やがすり)のリボンが風に揺れている。

 細身の真鍮フレームの丸眼鏡の奥にある瞳は、日本海の黄昏時のように知性的で、底知れぬ深みをたたえていた。

 小脇には、革表紙の古い手帖と、真鍮の万年筆を大切そうに抱えている。

 

 風に舞い上がった蓮の原稿用紙の紙片を、少女は長い袂(たもと)を押さえながら、ふわりと宙で受け止めた。

 

「……紙屑ではありません。この文章には、まだ名前を持たない魂の叫びが宿っていますよ」

 少女は眼鏡のブリッジを人差し指でそっと押し上げ、千切れた原稿の文字に目を落とした。

「『海を越えんとする者の瞳は、常に水平線の向こうの闇を恐れず。足軽・源作、櫂を握りて……』。ふふ、とても力強く、それでいて切ない筆致です。これを海に捨ててしまうなど、海神(わだつみ)への冒涜というもの」

「な、なんだ君は……? その格好、それにその列車は……」

 

 蓮は呆然と立ち尽くした。

 下関の唐戸に、線路など敷かれているはずがない。それなのに、目の前の美しい列車は、まるで初めからそこに存在していたかのように、夕暮れの潮風を纏って静かに息づいている。

 

「私は『はなし』。山陰の鉄路を巡り、土地と人の記憶を言の葉に変えて紡ぐ、語り部でございます」

 少女――はなしは、袴の裾を揃えて優雅に一礼した。

「萩の『は』、長門の『な』、下関の『し』。三つの地に眠る物語を繋ぎ、迷える旅人を本当の目的地へとお連れするのが私の役目。……そしてあなた、中原蓮さん。胸の内ポケットに、その証をお持ちではありませんか?」

 

 はなしの言葉に促されるように、蓮は思わずコートの胸元に手を差し入れた。

 指先が、硬く冷たい感触に触れる。

 取り出してみると、それは東京を出る前、亡き祖母の遺品整理をしていた際に見つかった、一枚の古い切符だった。

 厚みのある活版印刷用の硬券。

 行先も、運賃も、日付も書かれていない。ただ中央に『風の切符』とだけ、深い藍色の文字が刻まれている。

 祖母の引き出しにしまわれていたその紙片を、なぜか手放す気になれず、お守り代わりにポケットに入れていたのだ。

 

「それは、風の切符。あなたが今、自らの根源を求め、人生の新たなページをめくろうとしているからこそ、あなたの元へと届いたのです」

「俺の……根源?」

「ええ。あなたの手にするその日記。幕末の長州藩で足軽を務め、萩と長門を行き来した船大工――中原源作(げんさく)さんの記録ですね」

 

 蓮の心臓が跳ね上がった。

 なぜ見ず知らずの少女が、祖母の遺品の中にあった曾祖父の日記のことを知っているのか。

 

「曾祖父は……名もない足軽でした。維新の英傑たちの名前は歴史の教科書に燦然と輝いているけれど、曾祖父のような無名の人間が何を思い、どう生きたかなんて、誰も興味を持たない。俺は、その曾祖父の生きた証を小説にしたかった。でも……書けなかった。編集者からは『匂いがない』『血が通っていない』と切り捨てられた。俺には才能がないんです。歴史を語る資格なんて、最初からなかったんだ!」

 

 絞り出すような叫びが、海風にかき消されていく。

 はなしは、静かに歩み寄ってきた。編み上げブーツの足音が、波止場のコンクリートに澄んだ音を響かせる。

 彼女は蓮の目の前に立つと、優しく、しかし確固たる意志を込めて告げた。

 

「資格がないなどと、誰が決めたのですか?」

「え……?」

「頭の中の知識だけで書こうとするから、匂いが消えてしまうのです。歴史とは、遠い過去の無機質な記録ではありません。今を生きる私たちの血の中に、脈々と流れ続ける『生きた物語』なのです。……源作さんが吸った潮風の匂い、手にしたノミの重み、船底に塗った松脂の香り。それをあなたの五感で確かめないまま、どうして筆を折ることができましょうか」

 

 はなしは、拾い上げた原稿用紙を蓮の手のひらに戻した。

 そして、自らの背後にある美しい列車の扉を、手招きするように開いた。

 

「さあ、乗りなさい、蓮さん。下関から長門、そして萩へ。山陰本線の鉄路を辿り、あなたの曾祖父が遺した『志』の足跡を拾い集める旅へ参りましょう」

「俺が……乗ってもいいのか? こんな、夢を諦めた男が……」

「夢を諦めきれないからこそ、あなたは今、その原稿用紙を抱えて泣いているのでしょう? ……私の列車は、寄り道を愛する旅人の味方です。美味しい寄り道も、たっぷりと用意してありますよ」

 

 はなしは眼鏡の奥で悪戯っぽく微笑み、くるりと身を翻してステップを上がった。

 車内からは、温かな白熱灯の光と、かすかな木の香りが漂ってくる。

 蓮は、引き裂かれた原稿用紙と、曾祖父の古い日記をしっかりと胸に抱きしめ、引き寄せられるようにその扉をくぐった。

 

 夕闇の関門海峡を背に、『○○のはなし』が静かに動き出す。

 汽笛の音は、まるで新しい物語の幕開けを告げる鐘のように、夜の海へと澄み渡っていった。

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