第080話:木造船の図面、百五十年目の絆
萩城跡の広大な堀のほとりに佇む萩博物館。
白壁と瓦屋根の重厚な蔵造りの建物の奥深く、一般の観光客は立ち入ることのできない古文書収蔵室へと、はなしの案内で足を踏み入れた。
空調によって一定の湿度と温度に保たれた静謐な部屋には、古い和紙と墨、そして歴史の澱が醸し出す独特の乾いた香波が満ちていた。
「お待ちしておりましたよ、はなしさん。……お連れの方が、中原源作さんのご子孫ですね」
出迎えてくれたのは、白手袋をはめた初老の学芸員だった。
大きな桐の机の上には、すでに一枚の巨大な古文書が広げられていた。
「これは……?」
蓮が息を詰めて覗き込む。
それは、江戸末期・文久から元治年間に描かれた、極めて精緻な木造洋式軍艦の建造図面だった。
墨と朱の顔料で引かれた無数の線。船体の肋骨、キール、マストの接合部、大砲の台座に至るまで、驚くべき幾何学的な正確さで描き込まれている。
「幕末、長州藩が萩の恵比須ヶ鼻造船所で建造した日本最初の洋式軍艦――『丙辰丸』、そしてそれに続く『庚申丸』の建造記録と従事者名簿です」
学芸員が、虫眼鏡を片手に図面の右下、擦れかけた名簿の墨文字を指し示した。
「ここをごらんなさい」
蓮は身を乗り出し、眼鏡を押し上げた。
そこには、達筆な毛筆で、数人の職人の名が連ねられていた。
『造船掛棟梁 備後国御調郡忠海船大工 辰五郎』
『同補佐・木割図引 長州藩足軽 中原源作』
「……あっ!」
蓮の喉から、掠れた叫びが漏れた。
「中原源作……曾祖父の名だ! 本当に……本当に、ここで船を造っていたんだ!」
日記の中だけの幻ではなかった。
百五十年前、この萩の地で、曾祖父は確かに生き、この巨大な図面を引き、激動の海へと漕ぎ出す船に命を吹き込んでいたのだ。
だが、蓮の驚愕はそれだけに留まらなかった。
その隣に記された名前に、はなしがハッと息を呑み、真鍮フレームの丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたのだ。
「……備後国、忠海の船大工・辰五郎……!?」
「はなしさん? どうしたんですか?」
「蓮さん……信じられない奇跡が起きています」
はなしは、震える手で自らの手帖を開き、過去の記録のページをめくった。
「瀬戸内海を走る観光列車『エトセトラ』。以前、その列車に乗って傷心を癒やす旅をした佐倉唯という女性がいました。彼女が広島の忠海の波止場で出会った、一人の老船大工――辰造さん。彼がこう語っていたのです。『わしの先祖は、幕末に萩へ呼ばれて軍艦を造った船大工の辰五郎じゃ』と!」
「な……なんだって!?」
蓮の頭を、激しい衝撃が貫いた。
瀬戸内海の忠海で木造船を造り続けてきた老職人の先祖・辰五郎。
そして、日本海に面した萩で図面を引いた、蓮の曾祖父・源作。
百五十年前、幕府の目を盗み、日本の未来を守るために、瀬戸内と日本海を越えて二人の無名の男たちがここで出会い、肩を並べて同じ船の図面を引いていたのだ!
「忠海の辰五郎棟梁と、萩の足軽・源作さん……」
学芸員が、感慨深げに頷いた。
「長州藩には当時、洋式船の建造技術がありませんでした。そこで、瀬戸内でも屈指の船大工集団を抱えていた忠海から辰五郎を招聘したのです。しかし、言葉も風習も違う瀬戸内の大工たちと、頑固な長州の武士たちは最初、激しく衝突したと記録に残っています。その間を取り持ち、昼夜を問わず図面を清書し、大工たちの飯を炊き、最後には固い義兄弟の契りを結んで船を完成させたのが……この中原源作さんだったのですよ」
「義兄弟の……契り……」
蓮の視界が、急速に歪んだ。
大粒の涙が、ポロポロと頬を伝って零れ落ちる。
図面の余白に、源作の筆跡で、小さな注記が残されていた。
『忠海ノ辰五郎ト共ニ、瀬戸内ノ風ト日本海ノ波ヲ一ツノ船ニ込ム。我ラ名ハ残ラズトモ、此ノ船ガ運ブ志ハ、必ズヤ百歳ノ後ノ日本ヲ照ラスベシ』
「俺たちは……繋がっている」
蓮は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
「俺たちは、一人で生きているんじゃない。曾祖父たちが汗を流し、血を分かち合って繋いでくれたから……その船が未来へ風を運んでくれたから、今、俺たちがここに生きているんだ!」
瀬戸内の風と、日本海の波。
傷ついた元マーケターの唯が忠海で受け取った温もりと、今、筆を折ろうとしていた蓮が萩で受け取った熱量は、百五十年の時を超えて、一本の強靭な絆で結ばれていたのだ。
「蓮さん」
はなしが、静かに蓮の隣に立った。
その瞳にも、うっすらと光る涙の膜が張っていた。
「歴史とは、遠い過去の記録ではありません。名もなき人々の愛と祈りが、今を生きる私たちの胸へと注ぎ込まれ続ける、終わりのない大河なのです。……源作さんは、百年の後のあなたに、このバトンを託したのですよ」
「ああ……。受け取ったよ、爺ちゃん」
蓮は涙を拭い、図面に深く頭を下げた。
胸の奥底で、かつてないほどの巨大な衝動が、マグマのように滾り始めていた。
「書きたい。……いや、書かなきゃいけないんだ。彼らがどんな思いで船を造り、どんな夢を見て水平線を見つめていたのか。俺の手で、この命のすべてを賭けて、物語として甦らせなきゃいけないんだ!」
「ええ。そのための場所へご案内いたしましょう」
はなしは、真鍮の万年筆を誇らしげに掲げた。
「太陽が日本海へと沈む、あの美しい砂浜へ。今宵、あなたの魂の物語を紡ぎ出すのです!」




