第070話:こたつの中の水ようかん、静かな覚悟
雪まみれの特訓を終え、薪風呂で冷え切った身体を芯まで温めたあと、二人は居間の掘りごたつに入っていた。
外は再び雪がちらつき始め、障子越しに差し込む柔らかな冬の光が、使い込まれた畳の上に静かな陰影を落としている。
「ほら、食え。福井の冬は、これがないと始まらん」
岩佐が台所から運んできたのは、厚さ二センチほどの平たい紙箱だった。
蓋を開けると、一面に広がる、みずみずしい濃褐色のゼリー状の板――福井名物**『水ようかん』**だった。
「えっ……水ようかんって、夏の和菓子じゃないんですか?」
三上が目を丸くすると、岩佐はカカと笑った。
「福井じゃな、水ようかんは真冬にこたつに入って食べるもんや。昔、京都へ丁稚奉公に出ていた丁稚衆が、正月に故郷へ持ち帰ったのが始まりと言われとる。黒糖の効いたあっさりした甘みが、暖房で火照った身体にちょうどええんや」
箱の中には、あらかじめ賽の目に切れ目が入っていた。
付属の平たい竹べらで一枚すくい上げると、フルフルと震えながら、崩れそうなほど柔らかい。
口に運ぶ。
「……っ」
舌に乗せた瞬間、体温でサラリと溶けて液体になった。
驚くほどの瑞々しさ。餡の重さや甘ったるさは微塵もなく、沖縄産の上質な黒糖のコクと、ほんのりとした塩気が、清涼な水とともに喉をすべるように通り抜けていく。
こたつの温もりと、冷たい水ようかんの爽やかな甘み。
至福のコントラストだった。
「……美味いですね。いくらでも食べられます」
「そうやろ。冬の水分補給にもちょうどええんや」
三上は竹べらを置き、コートの内ポケットに手を伸ばした。
指先に触れたのは、京都駅で握りしめていた、あの白い封筒だった。
三上は封筒を取り出し、畳の上に置いた。
――『野球部監督辞任届』。
岩佐は封筒を見つめたが、何も言わなかった。
ただ、湯呑みのほうじ茶を静かに啜るだけだった。
三上は立ち上がった。
封筒を右手に持ち、土間へと歩み寄る。
土間の中央で赤々と熱気を放つ、鋳鉄製の薪ストーブ。
三上はストーブの小窓のハンドルを回し、鉄の扉を開けた。
中では、ナラの薪がパチパチと火の粉を散らし、千度の炎が渦を巻いている。
三上は迷わなかった。
辞任届の封筒を、その炎の渦の中へと放り込んだ。
メラッ!!
白い紙が一瞬で激しい炎に包まれた。
保身の文字も、逃げ腰の言い訳も、すべてが朱色の炎の中で灰となり、煙突から冬の空へと吸い込まれて消え去った。
扉を閉め、三上は岩佐に向き直った。
そして、直立不動の姿勢で、腰を直角に折って頭を下げた。
「先生。……俺、大阪へ戻ります」
澄み切った、力強い声だった。
「春の大会に向けて、もう一度、あいつらと泥まみれになります。嫌われてもいい、クレームが入ってもいい。……俺が誰よりも野球を愛する姿を、あいつらに背中で見せ続けます」
岩佐はこたつから顔を上げ、満足そうに頷いた。
「おう。行ってこい、徹。……グラウンドでお前が本気で振ったバットの風はな、必ず生徒の胸に届く。迷わず振り抜け」
「はい!」
土間の引き戸の隙間から、冷たくも爽快な越前の雪風が、三上の背中を力強く押していた。




