第068話:東尋坊の怒濤、黄色いタグの越前ガニ
夜になり、岩佐の運転する軽トラックに揺られて向かったのは、福井県北端の港町――三国港だった。
海沿いの道路に出ると、冷たい潮風とともに、地響きのような波の音が腹の底に響いてきた。
国の天然記念物――東尋坊だ。
輝石安山岩の巨大な柱状節理が、数十メートルの断崖となって海に突き刺さっている。
夜の闇の中、日本海の黒い荒波が岩肌に激突し、爆発のような白波を吹き上げていた。
自然の圧倒的な暴力美。
だが、今の三上には、その荒波が恐ろしくは感じられなかった。昼間、雪の中でバットを振り抜いた三上の胸には、荒波をも呑み込む熱い闘志が満ちていたからだ。
「よし、入るぞ。今夜はご馳走や」
岩佐が暖簾をくぐったのは、港の船着き場に面した、生簀のある古い割烹旅館だった。
座敷に通されると、部屋の中央に置かれた大きな大皿に、目を見張るほどの巨大な甲殻類が鎮座していた。
冬の味覚の絶対王者――**『越前ガニ』**。
「三国港で今朝揚がったばかりの、極上の本ズワイや」
岩佐がニヤリと笑った。
ハサミの付け根には、皇室献上ガニの産地として名高い「越前・三国港」の文字が刻まれた、誇らしげな黄色いプラスチックタグが巻かれていた。
仲居さんが手際よく、熱々の甲羅をパカッと外した。
――ボワァァァァッ!!
立ち上ったのは、大釜の塩水で茹で上げられたばかりの、言葉を失うほど濃密な磯の芳香だった。
甲羅の奥には、鮮やかなエメラルドグリーンと黒が混ざり合った、ネットリとした濃厚なカニ味噌が波打っている。
太い脚の殻を割ると、雪のように真っ白な身が、弾けんばかりの繊維となって現れた。
「ほら、徹。カニ味噌にたっぷり浸して、一口でいきな!」
三上は言われるまま、一番太い脚肉を甲羅の味噌に深くくぐらせ、そのまま口の中へと放り込んだ。
「…………っ!!」
三上の全身が震えた。
甘い。あまりにも甘い。
調味料など何一つ使っていないのに、日本海の海水の塩気と、カニの身そのものが持つアミノ酸の爆発的な甘みが、舌の上で狂おしいほどに溶け合っていく。
そこに、濃厚でビターなカニ味噌の芳醇なコクが絡み合い、喉を通る瞬間、全身の細胞が歓喜の声を上げる。
噛むほどに溢れるジューシーな肉汁。
パサつきなど微塵もない。繊維の一本一本が生きており、まるで極上の絹糸を束ねて食べているかのような贅沢な食感。
「美味い……! 先生、こんな美味いカニ、生まれて初めて食いました……!」
「おう、そうやろ! 三国のカニはな、底引き網で獲ってすぐ港に持ち帰り、生きたまま大釜で茹でるから、旨味が一切逃げんのや」
岩佐は一升瓶の栓を抜き、三上のガラスの盃へと注いだ。
福井・永平寺の銘酒『黒龍』の純米大吟醸。
盃を傾けると、リンゴのような華やかな吟醸香とともに、絹のように滑らかな酒が喉を滑り落ち、カニの濃厚な後味をどこまでも美しく洗い流していった。
「徹」
岩佐が盃を置き、真っ直ぐに三上の目を見据えた。
「時代が変わった、生徒が変わったと嘆く前に……お前自身が、グラウンドで誰よりも野球を楽しんでいたかを思い出せ」
恩師の太い声が、座敷に響く。
「ルールや指導法は変わってもええ。言葉遣いを丁寧にしてもええ。だがな、勝利を目指して泥だらけになる熱さ、仲間と一つのボールを追いかける尊さ……その本質は、百年前から一ミリも変わっとらんのや。お前が本気でぶつかれば、子供たちは必ず本気で返してくる」
「……はい」
三上は深く頷いた。
辞任届のことなど、もう頭の片隅にもなかった。
越前ガニの熱い命と、恩師の魂の言葉が、三上の胸の中で完全に一つになっていた。




