第067話:土間での素振り、錆びたノックバット
蕎麦を食べ終えたあと、岩佐は無言で立ち上がり、土間の奥にある納屋へと消えた。
ガタゴトと物音を立てて戻ってきた恩師の右手に握られていたのは、一本の細長い木製の棒だった。
――バットだ。
長年の激闘を物語るように、打球面には無数のボールの縫い目痕が凹みとなって刻まれ、ヘッドの木肌は削れてささくれている。グリップに巻かれた牛革は擦り切れ、汗と油で黒光りしていた。
岩佐が三十年間、何万本、何十万本というノックを球児たちに浴びせ続けてきた、あの伝説のノックバットだった。
「庭に出ろ、徹」
岩佐はバットを雪の積もる裏庭の地面に突き立てた。
三上は息を呑んだ。
外は、氷点下の吹雪。
足元は革靴で、服はスーツとスラックスだ。
けれど、三上は迷わずウールのコートを脱ぎ捨て、ワイシャツとネクタイのまま、三十センチの雪が積もる庭へと足を踏み入れた。
ザシュッ、ザシュッ……。
雪が革靴を濡らし、足首から激しい冷気が這い上がってくる。
だが、冷えた空気配など気にならなかった。
三上は雪の中からバットを引き抜き、両手でグリップを握りしめた。
「……冷たい」
氷のように冷え切った木の感触。
けれど、指先がグリップの窪みに触れた瞬間、二十年前の記憶が、全身の筋肉へと電撃のように走った。
「構えろ。……振ってみろ、今の己のスイングを」
岩佐が縁側に仁王立ちになり、腕を組んで睨みつける。
三上は深呼吸をし、右打席の構えをとった。
脇を締め、右肩にバットを乗せ、雪の向こうの仮想のピッチャーを見据える。
そして――踏み込んで、バットを振った。
――ビュッ……。
鈍い風切り音。
「甘い!」
岩佐の怒声が、吹雪を切り裂いた。
「腰が引けとる! バットの先が下がっとる! 当てにいっとるスイングや! 何に怯えている!? 怪我をするのが怖いか? 保護者の目が怖いか? 世間の批判が怖いか!?」
「くっ……!」
「もう一本! 振れぇぇぇっ!!」
ビュッ! ビュッ!
三上は無我夢中でバットを振り続けた。
息が切れ、肺が焼け、冷たい空気を吸い込むたびに喉が痛む。
ワイシャツは汗でぐっしょりと背中に張り付き、雪の上に足を取られてよろめく。
数ヶ月間、バットを握っていなかったブランクが容赦なく身体を襲う。
手のひらの皮が破れ、痛みが走った。見ると、右手のひらのマメが潰れ、真っ赤な血がグリップの革へと滲み出していた。
「徹!」
岩佐の太い声が、雪山に木霊した。
「お前は誰のためにグラウンドに立っていたんだ! 教育委員会のためか? 世間のためか? 違うやろが! お前が好きで好きでたまらんかった野球を、次の世代の子供たちに手渡すためやなかったんか!!」
「うああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
三上は絶叫した。
血まみれの手でグリップを握り直し、全身のバネを極限まで巻き上げ、足元の雪を蹴り飛ばした。
迷いを捨てた。
保身を捨てた。
嫌われる恐怖をすべてかなぐり捨て、ただ目の前の白球をスタンドに叩き込むイメージだけを抱いて、腰を鋭く回転させた。
――ビュオオォォォォォンッ!!
空気を真っ二つに引き裂く、凄まじい風切り音が轟いた。
バットのヘッドが鋭く走り、完璧なフルスイングが完了する。
その風圧に煽られ、庭の杉の木の枝から、ドサドサッと重い雪が一斉に落ちた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
三上はその場に両膝をつき、肩で激しく息をした。
手のひらは血まみれで、額からは湯気のように汗が立ち上っていた。
けれど、その瞳の奥には、濁りのない、燃え盛るような光が完全に蘇っていた。
サンダーバードが縁側の柱の陰で、静かに眼鏡を直し、微かに口元を緩めた。
「……いいスイングです。時速百三十キロに匹敵する、迷いのない軌道でしたよ」
岩佐は雪の中へと歩み寄り、三上の前に立った。
そして、太い手で、泥と雪に濡れた三上の頭を、ガシッと鷲掴みにした。
「……思い出せたな、徹。お前のフルスイングを」
「先生……っ!」
三上は雪の上に顔を伏せ、子供のように声を上げて泣き崩れた。
四十歳の男の熱い涙が、雪を溶かして大地へと染み込んでいった。




