第065話:日野川の雪解け水、水車小屋の煙
武生の市街地を離れ、車は日野川の支流に沿って、山あいの奥深くへと分け入っていった。
両脇に迫る杉の巨木は雪の重みに枝をしならせ、川のせせらぎは、雪解け水をたっぷり含んで青白く泡立っていた。
携帯電話の電波が一本、また一本と消えていく。
「ここです」
サンダーバードが足を止めたのは、深い杉木立に抱かれるようにして建つ、一軒の古民家の前だった。
茅葺き(かやぶき)の大きな屋根には、三十センチを超える雪がふんわりと積もっている。
家の脇では、川から引き入れた水を受けて、直径三メートルはある大きな木製の水車が、ゴットン、ゴットンと重厚な音を立てて回っていた。
煙突からは、薪をくべた甘い白煙が、冬の空へと真っ直ぐに立ち上っている。
軒先に掲げられた、風雨に晒された一枚の杉板。
そこには、太い墨文字で、見覚えのある筆跡が刻まれていた。
――『手打ち蕎麦 岩佐』。
「……先生」
三上の足が、凍りついたように止まった。
喉がカラカラに渇き、心臓が早鐘のように肋骨を叩く。
岩佐辰雄、七十二歳。
かつて福井の無名校を率いて甲子園に春夏通算十回出場し、全国の高校野球ファンにその名を知られた伝説の名将。
三上にとって、高校三年間で最も恐れ、最も敬愛し、人生の指針としてきた男だった。
高校時代、岩佐から受けた千本ノック。泥にまみれ、立ち上がれなくなった三上に、岩佐は叫んだ。
『徹! グラウンドで死ぬ気で走れん奴が、社会に出て誰かの役に立てると思うな! 男なら、自分の振ったバットに命を懸けろ!』
あの言葉を胸に、三上はこれまで生きてきた。
それなのに――今の自分は、生徒に嫌われるのを恐れ、保護者のクレームに怯え、辞任届をポケットに隠して逃げ出してきたのだ。
こんなみっともない姿で、どの面下げて恩師に会えるというのか。
「……サンダーバード、俺……やっぱり帰るよ」
三上が踵を返そうとした、その瞬間だった。
バシィッ! と強い衝撃が三上の背中に走った。
サンダーバードが、細い腕で三上の背中を容赦なく叩いていた。眼鏡の奥の銀の瞳が、怒りに燃えていた。
「見損ないましたよ、三上徹」
「な……!」
「打席に入る前からバットを放り出すバッターに、一体どんな未来があるというのですか? 三振を恐れて見逃すくらいなら、三球三振で空振りを奪われなさい! 入りなさい!」
ドン、と背中を突き飛ばされ、三上は古民家の引き戸に手をかけた。
ガラガラと、立て付けの悪い木製戸が音を立てて開く。
「……ごめん、ください」
土間の中は、芳醇な穀物の香りと、薪ストーブの柔らかな熱気に満ちていた。
土間の片隅。
水車と連動した大きな石臼が、ゴリ、ゴリ……と静かに回り、粗挽きの蕎麦粉を白い粉雪のように吐き出していた。
その石臼の前に、割烹着を着て、白い粉にまみれた一人の老人が立っていた。
白髪を短く刈り込んだ頭。
日焼けして深いシワが刻まれた顔。
そして何より、七十を過ぎてなお、丸太のように太い前腕と、分厚い胸板。
老人が、ゆっくりと振り返った。
「…………」
鋭い眼光が、三上を捉えた。
二十年前、甲子園のベンチで、サインを出すときに向けられたあの眼光そのものだった。
三上は息を詰め、その場に棒立ちになった。
数秒の沈黙ののち、老人の口元が、わずかに緩んだ。
「……遅かったな、徹」
低く、地鳴りのような太い声が、土間に響いた。
「腹が減っとるやろ。……飯にしてやる。上がれ」
叱責も、詮索もなかった。
ただ、すべてを見透かしたような恩師の一言に、三上の目から、熱い涙が一筋、こぼれ落ちていた。




