第063話:気比の松原、雪の敦賀ラーメン
滋賀と福井の県境を貫く深坂トンネルを抜けた瞬間、車窓の闇は一変した。
ぼたん雪が、重たく、湿り気を帯びて線路を白く埋め尽くしていた。
北陸の玄関口――敦賀駅。
「ここで一時下車します。内燃機関に燃料を補給しなければ、これ以上前へは進めません」
サンダーバードはコートのベルトをキュッと締め直し、足早に改札口へと向かった。
三上は吐く息を白く染めながら、その銀色の背中を追った。
駅を出て、まずはタクシーで海岸線へと向かった。
訪れたのは、日本三大松原の一つに数えられる名勝――『気比の松原』。
赤松と黒松、合わせて一万数千本が立ち並ぶ広大な松林が、一面の白雪を冠して静まり返っていた。
松林の向こうには、鈍色の敦賀湾。
荒波がドォォン……と低い地鳴りを立てて砂浜を叩き、松の枝から時折、重みに耐えかねた雪がドサリと落ちる。
厳寒の美しさだった。
雪と松の緑、そして海の青黒さ。一切の妥協のない冬の日本海が、三上の顔を刺すように冷たい潮風で撫で上げた。
「……身が引き締まるな」
「敦賀は昔から、畿内と北陸、そして日本海航路を結ぶ最重要の要衝です。ここを越えられなければ、北陸の春を見ることはできません」
サンダーバードは海を見つめたまま、短く言った。
「さあ、駅前へ戻りますよ。冷えた身体を温めなければ、人間は思考停止に陥ります」
***
敦賀駅前の本町通りへと戻ると、雪が降りしきる歩道の一角に、赤提灯を揺らす屋台の列があった。
風に乗って漂ってきたのは、たまらなく食欲をそそる、豚骨の濃厚な獣の香りと、焦がし醤油の香ばしい匂いだった。
昭和の初めから続く、敦賀名物――**『敦賀屋台ラーメン』**だ。
ビニールシートの暖簾をくぐると、狭い店内は沸き立つ寸胴鍋の白い湯気と熱気で満ちていた。
「へい、いらっしゃい! 雪の中、よう来てくれたね。並二つでいいかい?」
威勢のいい親父さんが、手際よく平ザルで麺を湯切りする。
運ばれてきたのは、朱色の雷紋が入った昔ながらのラーメン鉢だった。
「……うわっ、すごい湯気だ」
三上は思わず唾を飲み込んだ。
豚骨と鶏ガラを濁るまで強火で炊き出したスープは、深みのある濃い褐色。
表面には細かな豚の背脂がキラキラと浮かび、ニンニクの微かな香りが立ち上っている。
具材は、脂の乗った豚バラチャーシューが二枚、コリコリとしたメンマ、たっぷりの青ネギ、そして敦賀ラーメンの最大の特徴である、鮮やかな紅生姜が添えられていた。
「いただきます」
三上は両手で熱々のどんぶりを持ち上げ、レンゲでスープをひと口すすった。
「…………っ!!」
思わず、喉の奥から呻き声が漏れた。
ガツンとくる、濃厚極まりない豚骨のパンチ。
だが、臭みや嫌なしつこさは微塵もない。濃口醤油の鋭いキレと、鶏ガラのまろやかなコク、そして背脂の甘みが渾然一体となって、凍え切っていた舌を力強く叩き起こす。
続いて、中太の黄色いちぢれ麺を箸で持ち上げ、一気にすする。
――ズズッ、ズズズズッ!
強いコシ。スープをこれでもかと巻き込んで口の中に飛び込んでくる。
噛み締めるたびに、小麦の香ばしさと動物系の旨味が炸裂する。
合間に食べる紅生姜のキリリとした酸味と辛味が、濃厚なスープの油分を心地よくリセットし、レンゲを止まらせない。
とろけるように柔らかなチャーシューを噛み締め、熱々のスープを最後の一滴まで飲み干した。
「ふぅぅぅぅ……っ!」
三上の額から、ジワリと汗が滲み出た。
胃の腑がカッカと燃えるように熱い。指先と足先の毛細血管に、熱い血がドクドクと送り込まれていくのがはっきりと分かった。
ふと向かいを見ると、サンダーバードもどんぶりを綺麗に空にしていた。
眼鏡が湯気で真っ白に曇っており、それを外してクロスで拭う横顔に、三上は思わずフッと笑ってしまった。
「……なんだ、あんたも美味そうに食うんだな」
「当然です」
サンダーバードは平然と眼鏡をかけ直した。
「走る者にとって、食は燃料であり、命の炉心です。……少しは顔色が良くなりましたね、三上徹」
屋台を出ると、雪はさらに激しさを増していた。
だが、三上の身体はもう震えていなかった。
熱いラーメンのエネルギーが、胸の奥底で消えかけていた火種を、確かに温め始めていた。




