第062話:比良颪の唸り、時速百三十キロの白銀
東山トンネルを抜けた瞬間、列車のモーター音が一段と甲高く跳ね上がった。
山科を通過し、高架線へと駆け上がった特急サンダーバードは、日本屈指の超高規格複線――湖西線へと突入していた。
踏切が一つもないコンクリートの高架橋。
車輪が継ぎ目を叩くジョイント音は驚くほど少なく、低く唸るインバータ音が、時速百三十キロという極限の速度域へと車体を押し上げていく。
だが、その疾走を阻むかのように、西側の車窓から凄まじい轟音が叩きつけてきた。
――ズドォォォォォォンッ!!
窓ガラスが悲鳴を上げるように軋んだ。
西側にそびえる比良山地の冠雪した稜線から、日本海の寒気を孕んだ猛烈な突風――「比良颪」が吹き降ろしてきたのだ。
横殴りの吹雪が、白銀のカーテンとなって車窓を真っ白に覆い隠す。
普通の電車なら運行見合わせになるほどの暴風の中、サンダーバードは重厚な鋼鉄の自重と徹底した空力設計で、レールを鷲掴みにするようにして一直線に疾走していた。
「……すごい風圧だ」
三上は思わず手すりを握りしめた。
東側の車窓には、灰色の白波を立てて荒れ狂う琵琶湖の水面が広がっている。
近江白浜の沖合、吹雪の中に、湖水に浸かる白鬚神社の朱色の鳥居が、幻影のように一瞬だけ姿を現し、背後へと飛び去っていった。
「時速百三十キロ」
通路を挟んだ向かいの座席に、サンダーバードが脚を組んで腰を下ろした。
膝の上に置いた書類ホルダーに視線を落としたまま、冷淡な声で語りかける。
「この速度で走るとき、運転士は数百メートル先の信号現示を一瞬で判断し、ノッチを入れるか、ブレーキを引くかを決めます。迷う猶予はコンマ一秒もありません。迷いは、即座に大事故を意味します」
サンダーバードは顔を上げ、銀色の眼鏡の奥から、三上の顔を射抜くように見据えた。
「あなたの迷いは、一体何ですか、指導者。何を恐れて、時速零キロで立ち止まっているのです?」
三上は奥歯を噛み締めた。
胸の奥で、鉛のような重苦しい痛みが疼く。
「……時代が変わったんだよ」
吐き捨てるように言った。
「俺たちが高校生の頃は、指導者の言うことは絶対だった。泥まみれになって、倒れるまでバットを振って、厳しさの中にこそ本当の絆があるって信じてた。だが……今は違う。声を荒らげればパワハラ、厳しく指導すれば教育委員会に通報。生徒たちも『そこまでして勝ちたくない』って言うんだ」
三上は両手で顔を覆った。
「俺のやってきたことは、時代遅れの独善だったんだよ。生徒を傷つけるだけの存在なら、もう指導者なんて辞めた方がいい」
車内を満たすモーターの重低音。
サンダーバードは微動だにせず、三上の告白を聞いていた。
そして、冷たく、容赦のない言葉を放った。
「時代を言い訳にするな」
「……なに?」
「生徒を傷つけるのが怖いのではない。あなたは、自分が『嫌われること』を恐れているだけです」
――グサリ、と見えない刃が三上の心臓を貫いた。
「批判されるのが怖い。悪者にされるのが怖い。自分の情熱を拒絶され、傷つくのが怖いから、時代のせいにしてグラウンドから逃げ出そうとしている……違いますか?」
「お前……何を知った風な口を……!」
「私は知っています。この湖西線のレールの上で、どれほどの雪嵐に叩かれようとも、一歩も引かずに前を見据えて走り続ける運転士の眼光を」
サンダーバードは立ち上がり、銀色のステンレスタンブラーから、熱い湯気を立てる黒い液体を紙コップに注いだ。
ドスン、と三上のテーブルに置く。
「飲みなさい。敦賀に着くまでに、少しは頭を冷やすことです」
ブラックコーヒーだった。
三上は震える手でコップを持ち、口に含んだ。
強烈な苦味と、焼けるような熱さが、食道を通って胃の腑へと落ちていく。
サンダーバードの言葉が、図星すぎて痛かった。
嫌われたくなかったのだ。生徒たちに慕われる「いい先生」でいたかったのだ。その弱さを「時代」という言葉で覆い隠していた自分を暴かれ、三上は唇を噛み締めるしかなかった。
列車は近江塩津のループ線を抜け、いよいよ敦賀の山越えトンネルへと、雪煙を切り裂いて突入していった。




