第061話:零番線ホームの辞任届
京都駅の零番線ホームは、全長五百五十八メートルという日本一の長さを誇る。
初冬の夕暮れ、北山から吹き降ろす底冷えのする風が、長く伸びたコンクリートのホームを容赦なく吹き抜けていた。
通勤客や観光客が足早に行き交う中、木製のベンチの端に、厚手のウールコートの襟を立てた男が、彫像のように固まって座っていた。
三上徹、四十歳。
大阪府立高校で社会科を教えながら、野球部の監督を務めている。
三上の右手の指先は、コートの内ポケットにねじ込まれた、一通の白い封筒に触れていた。
封筒の表には、墨黒のマジックで、震える筆跡が記されている。
――『野球部監督辞任届』。
「……終わり、か」
吐き出した息が、白く濁って風に千切れた。
かつて三上は、福井県内の名門校で主将を務め、甲子園の土を踏んだ元高校球児だった。泥にまみれ、血の滲むような猛練習に耐え、仲間とともに白球を追った日々。恩師から叩き込まれた「一球同心」「最後まで絶対に諦めるな」という教えは、三上の人生そのものの背骨だった。
教員になり、自らも指導者として甲子園を目指した。
だが、時代はあまりにも急速に、そして残酷に変わっていった。
部活動の地域移行、練習時間の大幅な制限、猛暑対策による練習試合の中止。
それだけではない。
「先生の怒鳴り声は、威圧的で精神的苦痛です」
「なぜうちの息子をレギュラーから外したんですか。納得のいく説明を文書で提出してください」
「今の時代、根性論なんて誰も求めていませんよ」
職員室に鳴り響く保護者からの抗議電話、教育委員会からの度重なる指導。
そして何より三上の心を粉々に打ち砕いたのは、昨夏の府予選一回戦――零対十のコールド負けを喫した直後の、選手たちの冷めた目だった。
『先生、もういいじゃないですか。うちは進学校なんですから、早く受験勉強に切り替えたいんです』
『昭和のスポ根みたいな練習、正直しんどかったっす』
泣いて悔しがる者など、誰一人いなかった。
三上が人生のすべてを懸けて注いできた情熱は、生徒たちにとっては単なる「迷惑な押し付け」でしかなかったのだ。
自分が信じてきたものは、すべて暴力だったのか。
自分が愛してきた野球は、ただの古い遺物だったのか。
三上の胸の中にあった炎は完全に鎮火し、今や冷え切った灰だけが残されていた。
ふと、指先が辞任届の封筒のすぐ裏に、硬い別の紙片があるのを捉えた。
「ん……? なんやこれ」
引き抜いてみると、それは見慣れない一枚の硬券切符だった。
厚みのある長方形の褐色の紙。表面には、昔ながらの力強い活版印刷の文字。
┌──────────────────┐
│ [風] 風 の 切 符 │
│ 発駅:情熱を燃やし尽くした場所 │
│ 着駅:フルスイングを取り戻す場所│
│ │
│ 経由:湖西線・北陸本線疾風路 │
└──────────────────┘
「フルスイングを、取り戻す場所……?」
三上が自嘲気味に呟いた、その刹那だった。
――フォオォォォォォォォンッ!!
山科方面の闇を切り裂いて、鋭く、研ぎ澄まされた金属音のようなタイフォンが響き渡った。
空気がビリビリと震え、ホームの線路が甲高い音を立てて波打つ。
雪煙を車体にまとわせながら、凄まじい風圧とともに滑り込んできたのは、銀色に鈍く輝く流線型の特急列車だった。
白とメタリックグレーのボディに、鮮やかなコバルトブルーのストライプ。
北陸路の絶対的エース――特急『サンダーバード』。
プシューッと鋭い減圧音が鳴り、目の前の乗降扉がパッと開いた。
デッキから音もなく降り立ってきた人影に、三上は思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、長身の美女だった。
雷鳥の冬羽を思わせる、銀白色のショートヘア。
銀色の細身メタルフレームの眼鏡の奥から、射抜くような冷涼な銀の瞳が、三上を真っ直ぐに見据えていた。
身に纏うのは、白とグレーにブルーのラインが入ったスタイリッシュなロングコート。無駄な脂肪を極限まで削ぎ落としたアスリートのような引き締まった体躯と、モデルのような冷徹な気品。
女性は一歩、三上の前へと踏み出し、その手の中にある『風の切符』と、コートの隙間から覗く白い封筒を一瞥した。
「みっともない背中ですね、指導者」
その声は、冬の氷柱のように冷たく、けれど澄み切った響きを持っていた。
「え……?」
「戦う前から白旗を上げ、ベンチの隅で縮こまる姿……見ていて反吐が出ます。私のダイヤグラムに、そのような脱落者を乗せる余白はありません」
「な……なんだと!?」
三上の胸の奥で、カッと血が逆流した。
初対面の、それも年下の若い女に、ここまで侮辱されたのは生まれて初めてだった。
「私の名は『サンダーバード』。北陸のレールを最速で駆け抜ける者です」
サンダーバードは冷ややかに眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「逃げ出す前に、私のスピードについてこられますか? 言い訳を並べて立ち止まるか、それとも歯を食いしばって雪煙の中に飛び込むか……選びなさい」
彼女は翻るコートの裾とともに、デッキへと踵を返した。
三上は拳を強く握りしめた。
辞任届をポケットにねじ込み、硬券切符を鷲掴みにして、吸い込まれるように銀色の特急へと飛び乗った。
バタン! と扉が閉まり、列車は最高速度へ向けて、猛然と加速を開始した。




