第059話:湯元の湯壺、熱々の温泉卵と海風
大広間での儀式を終えたあと、チェックアウトを済ませた二人は、列車の時間まで和倉温泉の海沿いの温泉街をゆっくりと散歩することにした。
空は青く晴れ渡り、冬の冷たい空気の中にも、どこか春を予感させる柔らかな日差しが降り注いでいた。
「お母さん、あそこに湯気が上がってるよ」
美咲が指差したのは、海沿いの公園にある『湯元広場』だった。
石造りの大きな湯壺から、ゴボッ、ゴボッと音を立てて、約八十度の高温の源泉が吹き上がっている。
広場の売店では、網に入った生卵が売られていた。
「これ、源泉で茹でて食べられるんだって。やってみようよ」
「まあ、懐かしい。昔もここで温泉卵作ったわ」
二人は竹竿に引っ掛けた卵の網を、熱い湯壺の中へと沈めた。
立ち上る硫黄と潮の湯気を浴びながら、ベンチに腰掛けて待つこと十五分。
引き上げた卵は、殻がアツアツに温まっていた。
「熱っ、熱っ……!」
美咲がお手玉のように卵を転がしながら、コンとベンチの角で殻にヒビを入れた。
ペキペキと殻を剥くと、中から現れたのは、フルフルと震える純白の卵だった。
「お母さん、半分こね」
プラスチックのカップに割り入れ、スプーンで掬って口に運ぶ。
「……っ!」
白身はシルクのようにとろりと柔らかく、中央の黄身は、まるで濃厚なカスタードクリームのようにねっとりと甘い。
そして驚いたことに、塩も醤油も何もかけていないのに、舌の上に絶妙な塩気が広がった。
「お塩、かけてないのに……すごくいい塩味がする!」
「和倉のお湯はね、海の温泉やから、塩分がたっぷり入っとるんよ」
真弓がふーふーと息を吹きかけながら、嬉しそうに卵を口に含んだ。
「卵の殻を通して、温泉の塩分とミネラルが中に染み込むんや。……美味しいねぇ」
「うん、美味しい!」
二人は七尾湾を行き交う漁船を眺めながら、並んで温泉卵を食べた。
「ねえ、お母さん。……彼のこと、本当はどう思ってるの?」
美咲が少し照れながら尋ねると、真弓は吹き出した。
「どうって……真面目そうな、ええ人やないの。初めて家に来たとき、緊張しすぎて玄関で靴脱ぐの忘れて上がりそうになっとったやろ。あの姿見てな、『ああ、この人なら美咲のことを一生大事にしてくれるわ』って、ほんまはすぐ安心したんよ」
「えっ!? そうだったの? なのに、なんであんなに仏頂面してたのよ!」
「そら、父親代わりもしなあかんと思ったら、少しは睨み利かせな舐められるやろ」
「あははっ! なにそれ!」
二人の笑い声が、穏やかな海の上に響き渡った。
保護者と子供。
厳しくしつける母と、反発する娘。
そんな重たい役割の鎧を脱ぎ捨てて、二人は初めて、対等な「大人の女性同士」として、笑い合うことができていた。
カモメが一羽、穏やかな海面をかすめて飛び去っていく。
母と娘の間に流れる風は、これ以上ないほど温かく、優しかった。




