第058話:友禅ののれんをくぐって、涙の「ありがとう」
翌朝、午前八時。
旅館の大広間に通された美咲と真弓は、息を呑んで立ち尽くした。
床の間の鴨居に、目を見張るほど豪奢な暖簾が掲げられていたのだ。
鮮やかな深紅の絹地に、加賀友禅の技法でオシドリと満開の桜が描かれ、中央の上部には、神谷家の家紋が白く染め抜かれている。
能登半島に江戸時代から伝わる、婚礼の伝統儀式――**『花嫁のれん』**だった。
「お母様、お嬢様。……ご準備は整いましたか?」
花嫁が雅やかな着物の袖を整え、静かに一礼した。
「能登ではね、嫁ぐ娘は、仏間の前に掲げられたこの『花嫁のれん』をくぐり、両親に別れを告げて新しい人生へと旅立つのです。……お母様、どうぞ暖簾の向こうのお座敷へ」
真弓は胸に手を当て、暖簾の向こう側へと進み、畳の上に正座した。
美咲は、母が手縫いしてくれたあの純白の友禅ベールを、静かに髪の上に纏った。
透き通るような白と、真紅の暖簾。
薄い絹の布越しに、向こう側に座る母のシルエットが見えている。
「お嬢様。どうぞ、お母様にご挨拶をなさいませ」
花嫁の声に促され、美咲は暖簾の手前で、畳に両手をついた。
姿勢を正し、額が畳に触れるほど、深く、深く頭を下げた。
「お母さん」
震える声が、静まり返った大広間に響いた。
「二十九年間……私を一人で育ててくれて、本当に、本当にありがとうございました」
暖簾の向こうで、母の肩が大きく震えた。
「お父さんがいなくて寂しい思いをさせまいと、毎日夜遅くまでミシンを踏んで、私を大学まで出してくれたこと……。私が東京へ行きたいと言った時、笑顔で送り出してくれたこと……。どれだけ感謝しても、感謝しきれません」
美咲の瞳から、大粒の涙が畳に落ちた。
「私、お母さんの娘に生まれて、本当によかった。世界で一番、お母さんが大好きです」
暖簾の向こうから、嗚咽が聞こえてきた。
真弓もまた、畳に両手をつき、頭を下げていた。
「美咲……ありがとう。……あんたが生まれてきてくれた日から、私の人生は毎日が幸せやった。……幸せになりなさい。誰よりも、幸せになりなさいよ……!」
「はい……! 行ってまいります!」
美咲は顔を上げ、両手で真紅の花嫁のれんを押し開いた。
友禅の布をくぐり抜けた瞬間――。
母の腕が、美咲の体を強く、強く抱きしめた。
二人の涙が重なり合い、純白のベールを濡らした。
それは、別れの涙ではなかった。
互いの愛を確かめ合い、新しい未来へと歩み出すための、祝福の涙だった。
花嫁は両手を胸の前で合わせ、朝陽の差し込む大広間で、深く、深く頭を下げていた。
結ばれるべき縁が、今、永遠のものとして結ばれたのだった。




