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第056話:七尾湾の夕煙、寒ブリのしゃぶしゃぶ

列車は七尾線の終点――和倉温泉(わくらおんせん)駅へと到着した。

 駅から車で数分、七尾湾の波打ち際に建つ数寄屋造りの名旅館に通された。

 部屋の障子を開けると、眼前には外洋の荒波とは打って変わって、まるで湖のように穏やかに凪いだ七尾湾の水面が広がっていた。

 海中から湧き出るという湯煙が、夕暮れの茜色の空へと細く立ち上り、遠くに能登島大橋の白い弧が見えている。


「ようこそおいでくださいました。今宵は能登の冬の味覚を、心ゆくまでお召し上がりくださいまし」

 花嫁が仲居とともに運んできた夕食のお膳は、目を見張るほど豪華絢爛だった。


 中央に据えられたのは、透き通るような昆布出汁が張られた小鍋。

 そして、氷を敷き詰めた青竹の器の上に、大輪の牡丹の花のように並べられていたのは――。

 ピンク色の身に、細やかな白いサシが芸術品のように入った、見事な切り身だった。


「**『能登の寒ブリ』**でございます」

 花嫁が微笑む。

「日本海の荒波を泳ぎ抜き、脂の乗り切った一番太ったブリを、薄造りにしてございます。お出汁にサッと二度、くぐらせて召し上がれ」


 美咲は箸で大ぶりの寒ブリの身を一枚つまみ、沸き立つ出汁の中へ泳がせた。

 サッ、サッ……。

 ピンク色の身の表面が一瞬で白く霜降りになり、余分な脂がジュワッと出汁に溶け出す。

 自家製ポン酢ともみじおろしにつけ、口へと運ぶ。


「…………っ!!」

 美咲は思わず目を閉じた。

 とろける。噛む必要すらないほど滑らかに、舌の上でブリの身がほどけていく。

 熱を通すことで身がふっくらと甘みを増し、ポン酢の柑橘の酸味が、寒ブリの濃厚な脂を上品に引き締めている。

「お母さん、これ……すごい! こんなに脂が甘いブリ、初めて食べた!」


「ほんまやねぇ」

 真弓も目を細め、幸せそうに口元を綻ばせた。

「昔、能登の浜で食べたブリより、ずっと上品で美味しいわ」


 さらに、膳の上には、冬の北陸の宝石――**『香箱ガニ(こうばこがに)』**が並んでいた。

 小ぶりな甲羅の中に、プチプチと弾ける外子と、鮮やかな朱色をした内子、そして繊細なカニ身がぎっしりと美しく詰められている。

 二杯酢を垂らして口に運ぶと、磯の香りとカニの濃厚な旨味が、口内いっぱいに押し寄せてくる。


「お母さん、お酒、飲む?」

「そうね、一杯だけいただこうかしら」

 美咲は能登の銘酒『宗玄(そうげん)』のぬる燗を、真弓の猪口(ちょこ)へと注いだ。

 盃を交わす。

 辛口でありながら、能登杜氏(とうじ)が醸した深い米のコクが、ブリの脂をすっきりと洗い流していく。


 東京のサロンで、毎日時間に追われながら食べていたランチとは違う。

 誰の視線も気にせず、目の前の母と向かい合い、美味しいものを「美味しいね」と笑い合いながら食べる。

 美咲は胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じていた。

 ずっと欲しかったのは、豪華な式場でも、完璧なタイムスケジュールでもなく……ただ、母とこうして心から笑い合える時間だったのだ。

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